水戸徳川家→越前松平宗家

MT51:結城秀康  徳川家康 ― 結城秀康 ― 松平忠直 MT54:松平忠直

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松平忠直 松平光長

 慶長12年(1607年)、秀康の死に伴って越前75万石を相続し、慶長16年(1611年)には将軍・徳川秀忠の娘・勝姫を正室に迎える。
 慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では、用兵の失敗を祖父・徳川家康から責められたものの、夏の陣では真田信繁(幸村)らを討ち取り、大坂城へ真っ先に攻め入るなどの戦功を挙げた。しかし、戦後の論功行賞に不満を抱き、次第に幕府への不満を募らせていった。
 元和7年(1621年)、病を理由に江戸への参勤を怠り、また翌元和8年(1622年)には勝姫の殺害を企て、また、軍勢を差し向けて家臣を討つなどの乱行が目立つようになった。元和9年(1623年)、将軍・秀忠は忠直に隠居を命じた。忠直は生母の説得もあって隠居に応じ、隠居後は出家して一伯と名乗った。豊後国府内藩(現在の大分市)へ配流のうえ謹慎となった。1650年に死去、享年56。

 

 1621年(元和7年)江戸へ赴き、祖父である将軍秀忠に初見。以後、数年を江戸屋敷にて養育される。父・忠直は将軍秀忠と仲が悪く、粗暴な一面もあったなどとされるが、1623年(元和9年)2月に幕府により豊後国に配流とされた。当主不在となった北庄藩から重臣の笹治大膳が江戸に派遣され、当時江戸に住んでいた仙千代(光長)を越前に迎え入れたが、幕府方針で仙千代は再び江戸に帰された。翌年4月、江戸城に越前松平家支流諸家を集めた場にて、当時越後高田藩主であった松平忠昌(忠直の弟)を後継の北庄藩主とすることが申し渡され、仙千代には改めて越後高田に26万石が与えられ、仙千代を藩主とする高田藩を立藩した。老臣・本多飛騨守,小栗美作守,岡島壱岐守,本多七左衛門など大部分の家臣は光長に随って越後高田藩臣となった。
 延宝2年(1674年)1月30日、嫡子の綱賢が42歳で没した。綱賢には子がなく、光長には他に男子がなかったため急ぎ世継を定めねばならなくなった。重臣たちの評議の結果、甥にあたる永見万徳丸を世継ぎとすることが決まり、万徳丸を養子として迎えた(松平綱国)。ところが、この縁組の過程を巡って異母弟・永見長良や義弟にあたる家老・小栗美作などの重臣たちの争いが激化して、いわゆる越後高田騒動に発展した。長期に渡り藩内に混乱をもたらしたが、一旦は幕府により裁断が下され、落着となったが、裁決の翌年、家綱を継いだ5代将軍・徳川綱吉は越後騒動に対し異例の再審議、異例の将軍直裁にて行った。綱吉の裁断により高田藩は改易となり、光長は伊予松山藩へ、綱国は備後福山藩に配流され、藩士らにも大量の処分者を出した。また、親戚であり騒動の処理に関わっていた出雲広瀬藩主・松平近栄と播磨姫路藩主・松平直矩も連座して処分となった。
 貞享4年(1687年)、光長と綱国とともに赦免・召還され、賄料として合力米3万俵を与えられ諸侯に復帰する。後に綱国を病弱を理由に廃嫡する。不仲であったとも伝わる。
 小栗派旧臣らによる御家再興運動の結果、徳川光圀の周旋によって、元禄6年(1694年)、一門の松平直矩の子・源之助(矩栄→長矩→宣富と改名)を養嗣子とする。元禄10年(1697年)に光長は隠居した。元禄11年(1698年)、松平長矩に新しく美作国内に10万石が与えられ、津山藩が立藩した。光長はその後は静かな余生を送り、宝永4年(1707年)江戸にて、93歳の当時としては極めて長寿な生涯を終えた。光長の名乗りである「越後守」は光長所縁である津山藩歴代に継承された。 

永見長良 松平綱国

 父・忠直の改易後に流罪先の豊後国で生まれる。慶安4年(1651年)、兄・永見長頼とともに異母兄である越後国高田藩主・松平光長から2千石ずつ与えられる。ところが首席家老小栗美作が行った蔵米制に反発して両者の間に対立が生じた。
 延宝2年(1674年)、光長の嫡子・綱賢が男子なく死去した。光長は既に60歳で他に男子はなく、急ぎ世継を定めねばならなくなった。世継の候補は光長の異母弟である長良と既に病死していた長頼の遺児・永見万徳丸、そして光長の妹を母とする小栗美作の次男・大六であった。評議の結果、15歳の万徳丸が世継となり、元服して将軍・家綱から一字をもらい綱国と名乗り、三河守に任官した。
 綱国が世継と決まったが、家中では小栗美作が大六を世継にしようと企んでいるとの疑惑を持たれた。これに対して反小栗派の重臣が長良を押し立てて、光長に小栗美作の悪政を糾弾して隠居を要求した。優柔不断の光長は小栗美作に隠居を命じ、小栗美作はやむなく隠居を願い出て大六に家督を譲るが、長良らは収まらずさらに騒ぎを大きくした。事態を収拾できなくなった光長は大老・酒井忠清に裁定を訴え出た。酒井忠清は両派に和解を申し渡すが長良らは納まらず、遂に10月、幕府は長良とその一派を人心を惑わした罪で大名家へのお預けの処分を下され、長良も長州藩毛利家に預けられた。
 ところが、延宝8年(1680年)5月、将軍・家綱が死去し綱吉が5代将軍に就任すると、綱吉は一連の騒動の再調査を命じた。再審は同年12月に始まり、小栗美作や大名お預けとなった長良らに江戸出府が命じられた。長良は小栗美作と江戸で対決。延宝9年(1681年)6月、長良や小栗美作らが江戸城に召喚され、綱吉の親裁が行われ、小栗美作とその子・大六は切腹、長良もまた八丈島に流罪、高田藩は改易処分とされた(越後騒動)。
 流人で庶子と言えども系譜上は徳川家康の男系曾孫にあたる人物であり八丈島でも厚遇を受けたと言われている。だが、元禄14年(1701年)に同島を襲った歴史的な大飢饉で長良もまた食料を得ることも出来ずに、金が詰まった千両箱を抱えながら餓死したといわれている。 

 御連枝・永見長頼の嫡男として誕生。延宝2年(1674年)、伯父・松平光長の世嗣・綱賢が死去した。綱賢には男子がいなかったため、叔父・永見長良らと世嗣の座を争い、光長の世嗣に選ばれる。将軍徳川家綱より偏諱を賜って松平綱国を名乗る。
 しかし越後騒動で光長が処罰され、高田藩が改易になると綱国は備後国福山藩にお預けとなった。やがて赦免されたが、綱国は光長と不和になっており、元禄6年(1693年)に病を理由に廃嫡され、代わって前橋松平家から宣富が迎えられ世嗣となった。
 廃嫡後は美作国津山に移り、宮川御殿と呼ばれた屋敷に住んだ。宝永5年(1708年)には出家して更山と号し、享保20年(1735年)に74歳で死去した。
 子孫は永見姓に改め、以後、津山松平家家老の家系として存続し、明治3年(1870年)に松平氏へ復した。 

安藤国近 松平宣富

 家老・安藤靱負に養育され、安藤氏を称し家老として津山藩松平家に仕えた。宝永3年(1706年)11月27日元服。宝永7年(1710年)10月疱瘡に罹る。宝永8年(1711年)3月名前を主殿と改める。享保8年12月10日、娘が実父・松平更山(綱国)の養女となる。同年12月16日家老職を仰せつかる。享保9年(1724年)8月9日没。家督は嫡男の造酒助近倫が相続した。父・更山の養女となった娘は、享保12年(1727年)に岡山藩主・池田綱政の弟・政純に嫁いだ。子孫は代々津山藩に家老として仕え、安藤造酒助国睦の代に永見氏に改め、明治3年(1870年)永見丹波国忠の代に松平氏に復姓した。

 

 延宝8年(1680年)10月9日、陸奥国白河藩主・松平直矩(越前松平家支流)の3男として生まれる。元服して父・直矩の偏諱を受け矩栄と名乗る。
 元禄6年(1694年)、越後騒動で改易されたのち、合力米にて3万俵を与えられていた松平光長(元越後高田藩主)の養嗣子となり、光長の偏諱を受け松平釆女長矩と改めた。
 元禄10年(1697年)に光長が隠居すると「松平越後守」を称することを許され越前松平家嫡流を相続した、翌年には長矩に対し美作の内で10万石が与えられた。津山城を与えられ美作の大部分を領した長矩は津山藩を立藩し、堂々たる国持大名(準国主)として幕府から遇された。津山藩松平家の始まりである。
 越前越後以来の家臣はもとより、以前の津山藩の旧領主である森氏(森衆利)の遺臣など、人材を江戸や京洛にても求め、積極的に登用し、藩の運営を始めるが、同年、年貢を高く設定したために農民一揆(高倉騒動)が発生する。果断を持ってこれを乗り切ったが、この反省から、長矩は庄屋制度や大庄屋制度の改革による農村支配制の強化、財政改革を行なった。
 立藩直後の元禄11年9月、江戸で起こった勅額火事により、幕府より預かったばかりの藩邸を全消失した。のちに江戸城至近の鍛冶橋付近に藩邸用地7000坪と金1万両を与えられ、江戸上屋敷を再建した。将軍家(徳川家宣)の賜諱を受け、松平宣富と再度改名した。享保6年(1721年)2月7日に死去。享年42。後を長男・浅五郎が継いだ。

松平康哉 松平斉民

 宝暦2年(1752年)4月19日、第4代藩主・長孝の長男として生まれる。宝暦12年(1762年)、父の死去により跡を継ぐ。父は庄屋制度を廃するなどの"新法"による藩政改革を行なうことで藩財政などの再建を目指したが、あまり効果がなかったうえ、その父も若死にしたため失敗に終わっていた。跡を継いだ康哉は父が始めた新法による改革を一旦廃し、あくまで旧法による藩政改革を目指した。まず、同時代の名君と言われた上杉治憲や細川重賢らに倣い、大村庄助や飯室武中ら家柄にとらわれない有能な人材を登用して藩政にあたらせ、孝行者に対して褒賞を出す、育児法を制定するなどの、いわゆる社会福祉的な政策を中心とした藩政改革を断行し、成功を収めた。しかし天明3年(1783年)5月には天明の大飢饉による米価高騰により、領内で打ちこわしも起こった。
 寛政6年(1794年)8月19日、43歳で死去し、跡を次男・康乂が継いだ。同時代の幕府老中で康哉と親交のあった松平定信は著書中にて康哉を「人となり博学弁才無双、相学、天学をなして高談をよろこぶ。いかがしけん、予をば至って親しみて、常に来り訪ひ給ふ。相客あれば来り給はず。これ又偉人なり。」と評している。

 文化11年(1814年)、11代将軍・家斉の14男として生まれる。文化14年(1817年)9月18日、美作津山藩主・松平斉孝の養嗣子となる。文政7年(1824年)、元服して従四位上侍従・三河守に叙任。のち正四位上・左近衛権中将・越後守。天保2年(1831年)11月22日、斉孝の隠居により家督を相続。天保3年(1832年)4月19日、初入国。藩の財政再建や教育の普及などに力を注いだ。
 安政2年(1855年)5月3日、養子・松平慶倫(斉孝の4男)に家督を譲って隠居し、確堂と称する。文久3年(1863年)4月、津山に隠居した斉民に対し、幕府は毎年1万俵の隠居料を給したが、これは将軍・家斉の実子という理由の他に、誠実な性格が将軍家において人望が厚かったためとされる。
 慶応元年(1865年)3月、江戸に出府。維新の動乱の際は、勤皇,佐幕の方針をめぐって藩内は混乱したが、斉民によって勤皇に統一される。慶応4年(1868年)5月3日、江戸開城にともない新政府より田安亀之助(徳川家達)の後見人を命じられ、その養育に尽力した。明治24年(1891年)3月23日、78歳で死去。家斉の53人の子や孫の多くが夭折したり、子孫が残せぬものが多い中、例外的に長生きであったといえる。
 天璋院と固い信頼関係にあったという。安政5年(1858年)には大老・井伊直弼は14代将軍・徳川家茂の後見として、徳川慶頼と共に斉民を据えようと画策する。直弼は斉民に対して清水徳川家の相続を働きかけたものの、斉民が辞退したこと、またその後の幕府による調査の結果「評判宜しからず」と評価されたことなどから、この話は立ち消えになった。
 現在まで残っている家斉の男系子孫は、斉民の子孫のみである。 

松平慶倫 松平慶民

 文政10年(1827年)閏6月5日、7代藩主・松平斉孝の4男として誕生した。初名は有倫。弘化4年(1847年)9月、8代藩主・松平斉民の養子となる。同年12月1日、12代将軍・徳川家慶に御目見する。嘉永元年(1848年)1月23日、従四位上・左少将・三河守に叙任される。後に正四位下・左中将にまで昇進する。
 安政2年(1855年)5月3日、斉民の隠居により家督を相続する。文久3年(1863年)、国事周旋の内勅を受け上京し朝廷と幕府との調停にあたり、八月十八日の政変以降は藩内の尊皇攘夷派の排斥をおこなった。明治2年(1869年)6月、版籍奉還により津山知藩事に任ぜられる。明治4年(1871年)7月15日、廃藩置県により免職となる。同年7月26日、45歳で死去。法号は慎由。墓所は岡山県津山市八子の愛山松平家墓所の愛山廟。
 しかし、明治政府には死亡を隠し、公的には「明治4年(1871年)8月10日、隠居し、養子・康倫(実父・斉民)に家督を譲る。同年8月12日死去」と届けている。その後、康倫は明治11年(1878年)に没し、康倫の弟・松平康民が津山松平家の家督を相続した。 

 文久元年(1861年)8月26日、津山藩藩主・松平斉民の5男として生まれる。母は家女。
 明治3年(1870年)1月26日、実父・斉民とともに清水徳川家の相続候補者として名が挙がっていたものの、辞退する。明治11年(1878年)1月21日、兄・松平康倫が没したのちに家督を相続した。明治13年(1880年)9月15日、康民と改名する。
 明治17年(1884年)7月8日、子爵に叙爵される。明治22年(1889年)から明治27年(1894年)にかけて、勝海舟などを通じ、政府に対し伯爵となることを働きかけるものの、失敗に終わった。
 明治23年(1890年)7月から亡くなるまで貴族院議員を務める。日清・日露両戦争での功績により正三位勲三等・従二位に叙された。大正10年(1921年)3月3日、死去。墓所は谷中墓地。
 長男・康良に先立たれていたため、次男・康春が家督を継いだ。 

松平国姫

 越前松平家の本家筋の高田藩から福井藩主の松平光通のもとへ嫁いだ。京都の公家からも賞賛されるほどの和歌の達人で、光通との仲は良かった。ところが光通との間には女児2人しか生まれず、男児が出来なかった。しかし、光通は別の女性との間に権蔵(後の松平直堅)という男児を儲けていた。光通は国姫を憚って権蔵を認めようとしなかった。
 ところが、このことを耳にした国姫の祖母の高田殿は激怒した。高田殿は光通に対して福井藩の跡継ぎは国姫との間に生まれた男児にするように強要し、ついには起請文を取るまでに至った。このことから光通との仲は一気に悪化し、国姫は男児を生めないことを苦にして自殺してしまった。後に光通も自殺し、このことが福井藩の跡目争いや減封の原因となってしまった。