水戸徳川家→高松松平家

TG31:徳川頼房  徳川家康 ― 徳川頼房 ― 松平頼重 MT91:松平頼重

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松平頼重 松平頼常

 元和8年(1622年)7月1日、水戸藩主・徳川頼房の嫡男として江戸麹町にある家老・三木之次の別荘で誕生。母は谷重則の娘・高瀬局。密かに養育されたのち、権大納言・滋野井季吉へ預けられ、天龍寺慈済院で学問および武芸などを学んだ。
 その後、寛永9年(1632年)に水戸からの招きで藩邸に入るも、寛永14年(1637年)まで父・頼房に御目見できなかった。この間、水戸藩の世嗣には同母弟・光圀が決定していた。寛永15年(1638年)に右京大夫を名乗り、家光に御目見した。このときの扱いは、光圀に次ぐ次男の扱いであった。
 寛永16年(1639年)、常陸国下館5万石を与えられた。同19年(1642年)、讃岐国高松12万石に加増転封となる。高松就封にあたり、幕府より中国や西国諸藩の動静を監察する役目を与えられたという。
 将軍名代として後水尾上皇に拝謁したり、交通の要所の讃岐を与えられるなど、次男扱いとされていても、嫡男に相応しい待遇を得ている。後に正室所生の二子(徳川綱方,徳川綱條)が光圀の養子となり、水戸藩の家督は次男・綱條が継ぐ。一方、頼重は光圀の子・松平頼常を養子に迎え、延宝元年(1673年)に家督を譲って隠居した。元禄8年(1695年)4月12日死去。74歳。 

 承応元年(1652年)11月21日、水戸藩主・徳川光圀の長男として生まれた。妾腹(母は弥智)の子であり、かつその頃、光圀と関白近衛家の娘・尋子との縁談がまとまりつつあった。このため懐妊中の母は水戸家臣である伊藤友玄に預けられ、江戸小石川の伊藤の屋敷で頼常を生んだ。頼常は光圀の兄・松平頼重が育てることとなり、生後間もなく京に、翌春に讃岐国高松に移され、高松城内で養育された。母親は江戸に留まり、のち水戸藩士の望月信尚の妻となった。
 光圀は兄の頼重を差し置いて自身が水戸藩主となったことを遺憾としていたため、頼重の次男である綱條を自身の養嫡子とした。寛文4年(1664年)、頼常は頼重の養子となった。
 延宝元年(1673年)2月19日、頼重の隠居により高松藩主となった。藩政においては、元禄8年(1695年)に厳しい倹約令を定めて藩財政を立て直し、元禄9年(1696年)に法令を刷新するなどした。また、元禄16年(1703年)には講堂を建設して儒学者の松下見林を招聘している。
 元禄7年(1694年)閏5月、光圀の許しを得て実母の弥智を高松に迎えた。この頃には望月は死去し、母は独りであったとされる。弥智は高松にて藩主生母として遇され20年、頼常より長生きし正徳4年(1714年)に81歳で死去した。
 宝永元年(1704年)2月に隠居し、養子の頼豊に家督を譲る。同年4月3日に死去した。享年53(満51歳没)。頼常の死により、光圀の血筋は断絶した。 

松平頼豊 松平頼恭

 延宝8年(1680年)閏8月20日、図書家当主松平頼章の次男として高松にて誕生した。母は権中納言・樋口信康の娘・七姫。
 貞享4年(1687年)に父が死去したため家督を相続して図書家の当主となった。元禄17年(1704年)2月11日に藩主松平頼常が隠居したため、その養嗣子として家督を相続して藩主となった。風水害や流行病などが相次ぎ、享保の大飢饉の被害もあって藩財政は苦しくなり、藩士の知行を削減して財政再建と出費抑制に努めた。その一方で、生活に苦しむ領民の租税を軽減するなどしている。享保20年(1735年)10月20日、江戸で死去した。享年56。
 頼豊の息子のうち、嫡男・徳川宗堯は水戸徳川家を相続し、代わって嫡男とした頼治は早世した。そのため、大膳家当主・松平頼煕の嫡男・頼桓を婿養子として跡を継がせた。
 『盛衰記』によれば、頼豊以前は藩主が幕府から死罪人を貰い受けて藩主自ら試し斬りにする慣習があったが、頼豊が宝永年間に藩主に就任して以降は幕府がそのような慣習を廃止したため、高松藩に限らずどの藩でも行われなくなったという。 

 正徳元年(1711年)5月20日、陸奥守山藩主・松平頼貞の5男として生まれる。高松藩第4代藩主・松平頼桓の養子となり、元文4年(1739年)に頼桓が死去したため、29歳で第5代藩主に就任した。当時の高松藩は元からの水不足に加え、火災が多発し、凶作が続いていたため財政が苦しくなっていった。これを打開するために頼恭は質素倹約を実行し藩士への禄を減らして財政再建を目指した。しかし、その後も凶作が続き、藩札を発行するなどの対抗策を行ったがこれらはあまり効果が無かった。そこで藩の収入を上げるため、頼恭は家臣の平賀源内に命じて薬草の栽培を行わせた。また当時は高価な貴重品であった砂糖栽培の研究も行っている。さらに塩田を切り開いて塩の増産を図る努力をした。また、領民の声を聞くため投書箱を設置した。藩政に尽力した頼恭を高松藩中興の藩主として領民は称えたという。
 本草学に詳しく、参勤交代の途中で大坂に立ち寄る時に源内に命じて薬草を探させ、幾日も滞在して参勤の費用が多くなってしまったという。平賀源内が田沼意次に召し出されると知った頼恭はたいへん怒り、今後、平賀源内を召し抱えることは絶対に認めないという内容の回状を全大名に回したといわれる。
 明和8年(1771年)7月18日に死去。享年61。

松平頼裕(大久保一学) 松平頼起(大久保頼辰)
 家老の大久保家に養子入りしていた同母兄・頼起が、兄の第6代藩主・松平頼真の家督を継いで第7代藩主となったため、代わって大久保家を継ぎ大久保一学と名乗る。藩主頼起の実弟として権勢を振るった。甥の松平頼儀が第8代藩主となった際、藩主の叔父として松平に復姓、松平主計と名乗る。寛政13年(1801年)1月5日没。 

 延享4年(1747年)6月23日、第5代藩主・松平頼恭の4男として誕生。延享5年(1748年)、前年死去した大老・大久保公明(新蔵)の養子となって大久保主計家の家督を相続し、大久保頼辰と名乗る。明和2年(1765年)2月、頼恭の命で藩主一門に復帰し、名を松平帯刀頼起と改める。大久保家の家督は弟の一学(後の松平頼裕)が相続した。安永9年(1780年)に異母兄で第6代藩主の頼真が死去し、その実子である雄丸(後の頼儀)が6歳という幼少のため、兄の養子となって家督を継いだ。
 天明の大飢饉ではあまり被害を受けなかったこともあり、また先々代,先代の頃から続く藩財政好転の兆しもあって、逆に飢饉に対する対応策で悩む幕府に対して献納金を申し出るほどだったという逸話もある。しかしこのため、高松藩は次第に奢侈にはしるようになり、また風俗なども乱れるようになって藩財政は次第に悪化していくようになった。寛政元年(1791年)に向山周慶が砂糖製造に成功し、以後は砂糖が高松藩の特産品となった。
 寛政4年(1792年)7月28日に死去した。享年46。

松平頼該 松平頼恕

 仏教改革者。別名、左近,金岳,宮脇公。幼名、隆之丞。江戸小石川出身。
 異母弟の松平頼胤が生まれると疎まれ、8歳のとき国元の高松に帰される。31歳で高松藩城下の宮脇村亀阜荘へ隠居。その後、幕末の勤皇志士と交わり、日柳燕石,藤川三渓らを庇護した。また本門佛立宗の高松八品講を組織する。
 明治維新では、高松藩は、慶応4年(1644年)1月3日のいわゆる鳥羽・伏見の戦いに幕府側として加わったことから朝敵となり、官軍による征討の対象となった。藩内には、官軍を迎え討って戦火を交える意見の中、松平頼該が藩論をまとめ、1月18日二人の家老・小河又右衛門久成と小夫兵庫正容を切腹させて首を鎮撫使に差出し、11代藩主・松平頼聰が城を出て浄願寺に入って謹慎させて、官軍に恭順を示し高松藩を戦火から救った。 

 水戸藩主・徳川治紀の次男として誕生した。母は中山慶次郎の娘・八重崎。文化12年(1815年)に高松藩主・松平頼儀の婿養子となり、頼恕に改名する。文政4年(1821年)、養父の隠居に伴い家督を相続する。在職は22年。家老・木村通明(亘,黙老)を通じて、藩財政の節制や改革を行った。東讃出身の久米通賢を登用し、悪化していた藩の財政を立て直すため坂出の東大浜・西大浜で国内最大級の塩田を開発した。また砂糖作りの奨励も行い、取引を円滑化するため砂糖為替法を定めた。学問面では、水戸学の影響を受けて、『一代要記』の後を継ぐものとして『歴朝要紀』を編纂させ、朝廷に献じている。
 天保13年(1842年)に45歳で没し、養嗣子で頼儀の実子の頼胤が跡を継いだ。同じく水戸藩から養子入りした2代・頼常にならって、霊芝寺に儒式墓で葬られた。 

松平頼胤 松平頼聰
 8代藩主・松平頼儀の次男として誕生した。母は藤木氏。文政元年(1818年)、松平頼恕の養嗣子となる。天保13年(1842年)、先代・頼恕の死去により家督を継ぐ。弘化元年(1844年)、幕命により若年の水戸藩主・徳川慶篤の藩政を補佐した。安政4年(1857年)から翌年の将軍継嗣問題,日米修好通商条約の勅許問題においては、大老・井伊直弼につき、本藩である水戸藩を圧迫している。その後、桜田門外の変による井伊直弼暗殺もあり、文久元年(1861年)7月、蟄居を命じられたため、頼恕の4男で自身の養子の頼聰に家督を譲って隠居した。明治4年(1871年)、東京に移る。明治10年(1877年)没、68歳。法諱は善得。 

 天保5年(1834年)8月4日、第9代藩主・松平頼恕の4男として生まれる。嫡子となっていた兄・松平頼煕が弘化3年(1846年)に早世したため、嘉永6年(1853年)に父の跡を継いだ第10代藩主・松平頼胤の養子となる。文久元年(1861年)7月8日に頼胤が隠居したため、7月9日に家督を継いで第11代藩主となった。幕末期の動乱の中では、親藩であり徳川慶喜とも縁戚関係に当たったため、佐幕派として京都・摂津方面の警備を務めた。元治元年(1864年)の禁門の変では御所の警護を務めた。
 慶応4年(1868年)1月3日の鳥羽・伏見の戦いでは旧幕府軍に与して薩摩藩,長州藩の軍勢と戦ったため、戦後に新政府から朝敵とされて頼聰は官位を剥奪された。このため、頼聰は松平頼該らを中心に藩のとるべき道を討議させ、官軍を迎え討つという藩論をおさえ、官軍恭順にまとめた。そして1月18日に責任者として執政の小河又右衛門久成と伏見役の総督・小夫兵庫正容の2人を切腹させて首を差し出し、自らは城下の浄願寺に入って謹慎した。同年4月15日になって罪を許され、22日に官位が復されている。
 以後は藩政から遠ざかり、松崎渋右衛門が執政となった。明治2年(1869年)の版籍奉還で高松藩知事に任じられるが、9月に高松城内で松崎が暗殺され、明治3年(1870年)1月には阿野郡北部で役人の不正による百姓一揆が起こるなどした。明治4年(1871年)7月の廃藩置県で藩知事を免官されたが、頼聰が9月に東京市に移ろうとした際には、これに反対する坂出,宇足津などで百姓一揆が起こるなど、高松は混乱続きであった(東讃蓑傘騒動)。
 明治17年(1884年)の華族令で伯爵となる。明治36年(1903年)10月17日に死去。享年70。 

松平頼寿 松平頼覚

 第10・11代貴族院議長を務める。学習院高等科から大隈重信に傾倒し東京専門学校(現・早稲田大学)邦語法律科卒業後、明治41年(1908年)に貴族院議員に列して以来、一時中断を挟んで30年以上にわたって議員を務めた。会派は扶桑会→甲寅倶楽部→研究会。また、教育者としても活動し、本郷学園(本郷中学校・高等学校)を設立。文武両道のエリート教育を目指す。本郷区教育長も務める。
 昭和8年(1933年)、貴族院の正副議長は公爵・侯爵が就任するという慣例を破って副議長に就任し、4年後には議長の近衛文麿の内閣総理大臣就任に伴い、議長に昇格する。在任中に死去し勲一等旭日大綬章に叙せられ貴族院葬が行われた。 

 天保7年(1836年)家督を相続。文久3年(1863年)藩主・松平頼聰の名代として上京して京都警備の任に就く。元治元年(1864年)6月上京、7月禁門の変の際に仙洞御所を守衛する。同年11月第一次長州征討に出陣。元治元年(1864年)藩政相談役となり1000石の加増を受ける。慶応3年(1867年)没。家督は3男の頼纉が相続した。