水戸徳川家→宍戸松平家

TG31:徳川頼房  徳川家康 ― 徳川頼房 ― 松平頼雄 MT94:松平頼雄

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松平頼雄 松平頼徳

 常陸水戸藩主・徳川頼房の7男として水戸で誕生した。幼名は藤吉郎。天和2年(1682年)、次兄・光圀から常陸宍戸1万石を分与されて立藩した。
 元禄10年(1697年)5月14日、68歳で死去した。五兄・頼利の子で養嗣子の頼道が相続した。墓所は茨城県常陸太田市の瑞龍山。

 弘化3年(1846年)9月21日、父の隠居により跡を継ぎ、父と共に本家水戸藩の徳川慶篤の補佐を務めた。元治元年(1864年)、天狗党の乱が起こると、その鎮圧に当たったが失敗した上、頼徳にも天狗党に同情的な部分があったために幕府より責任を追及され、同年10月1日(もしくは10月5日)に頼徳は切腹、家臣の多くも処刑され、宍戸藩は改易となった。
 その後、明治時代になり父の頼位が再封を得て、子孫は子爵に叙された。

松平頼位

 文化7年(1810年)2月13日生まれ。天保10年(1839年)、先代藩主の松平頼筠が嗣子無くして死去したため、その養嗣子となって後を継いだ。藩主就任前から徳川斉昭の本家水戸藩相続に尽力し、斉昭に従って藩政改革を行なっている。弘化3年(1846年)9月21日、家督を長男・頼徳に譲って隠居したが、その後も本家を継いだ徳川慶篤の補佐を務めている。元治元年(1864年)、水戸藩にて天狗党の乱が起こると、子の頼徳は鎮圧に失敗したことを幕府より咎められて切腹し、頼位自身も連座で拘禁され、宍戸藩は廃藩となった。
 慶応4年(1868年)2月、新政府より宍戸藩の復活を許されて、頼位は藩主として再任する。明治2年(1869年)の版籍奉還で知藩事となり、明治4年(1871年)の廃藩置県で免官される。その後は神官となった。文化人として優れており、徳川斉昭の事蹟をまとめた『告志篇』や『明倫歌集』10巻などがある。明治13年(1880年)7月、家督を次男・頼安に譲った。
 作家の三島由紀夫は玄孫にあたる。