織田氏庶流の津田氏の生まれであり、父の秀重とともに織田信長に仕え、岳父の滝川一益の与力として旗下に加わる。天正2年(1574年)3月、信長の嫡男・信忠の命より、祖父・織田秀敏の跡を継いだ。 天正10年(1582年)2月の甲州征伐にも従軍し、同年3月23日の一益の上野国拝領に伴い松井田城を任され、後閑氏の後閑城を攻め落としている。しかし、同年6月18・19日の神流川の戦いに一益が敗れるとこれに合流し、伊勢及び尾張に帰還した。 天正11年(1583年)、一益が賤ヶ岳の戦いにより没落すると浪人した。その後、信長の次男・信雄に仕え、伊勢三重郡高角郷に800貫文を知行した。その後、信雄が没落すると豊臣秀吉に馬廻として仕えた。文禄元年(1592)7月、肥前名護屋城の本丸番衆に名を連ねている。 慶長3年(1598年)の秀吉死後は徳川家康に仕え、慶長5年(1600年)、家康に従い会津征伐、関ヶ原の戦いで功を挙げ、3,000石を与えられて計4,010石余の大身旗本となった。この時、名物唐物茶入の「安国寺肩衝」を拝領したが、後に細川忠興に持ち去られた。 慶長11年(1606年)、嗣養子・津田正重が死去すると、滝川一益がその子・九天宗瑞を開祖として起こした暘谷庵(京都妙心寺)を再興し、「暘谷院」として津田家の菩提寺とした。慶長19年(1614年)大坂の陣に従軍している。元和2年(1616年)に剃髪、京都に隱棲し興庵と号した。寛永12年(1635年)に死去。享年90。 この時、前述の暘谷院は、津田秀政の号名にちなんで院号を「長興院」と改めている。長興院は、後に九天宗瑞と慈徳院が織田信忠の菩提所として開創した「大雲院」を併合した。
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