<神皇系氏族>天神系

OT02:大伴武日  大伴武日 ― 大伴 咋 OT11:大伴 咋

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大伴 咋 大伴長徳

 用明天皇2年(587年)丁未の乱において、阿倍人,平群神手,坂本糠手らと共に物部守屋討伐軍に参加する。
 崇峻天皇4年(591年)紀男麻呂,巨勢比良夫,巨勢猿,葛城烏那羅と共に任那再建のための遠征軍の大将軍に任ぜられ、2万余の軍勢を率いて筑紫まで赴く。しかし、翌崇峻天皇5年(592年)崇峻天皇が暗殺され遠征軍の渡航は中止される。その後も軍事・外交分野で活動した。
 推古天皇16年(608年)小野妹子に従って来日した隋使・裴世清が朝廷で国書を提出した際に、咋は国書上奏の任にあたった。推古天皇18年(608年)新羅・任那の使人が来朝した際、蘇我豊浦蝦夷,坂本糠手,阿倍鳥と共に四大夫の一人として対応している。冠位は大徳に至る。

 舒明天皇4年(632年)第1回の遣隋使とそれに伴った唐使・高表仁を難波で出迎え、皇極天皇元年(642年)舒明天皇の殯宮では誄を蘇我蝦夷に代わって奏上している。
 大化元年(645年)の乙巳の変では中大兄皇子側であったようである。大化5年(649年)には大紫位・右大臣に任じられている

大伴兄麻呂 大伴駿河麻呂

 天平3年(731年)尾張守に叙任される。天平9年(737年)主税頭として京官に復すが、美作守,美濃守と再び地方官を務め、その後、聖武朝末にかけて急速に昇進を果たした。
 天平勝宝元年(749年)7月の孝謙天皇の即位に伴い参議に任ぜられると、8月に光明皇后のために紫微中台が設置された際には、藤原仲麻呂に次いで石川年足と共にその次官(紫微大弼)に任官され、光明皇后・藤原仲麻呂を補佐した。その後も昇進を続けるが、一説では天平宝字2年(758年)に謀反したともされる。

 天平宝字元年(757年)の橘奈良麻呂の乱においては、謀反に加わったとして処罰を受け、その後長く不遇を託った。
 のち罪を赦されたらしく、称徳朝末の神護景雲4年(770年)5月に出雲守に叙任される。光仁朝に入ると急速に昇進した。
 宝亀3年(772年)には陸奥按察使に任ぜられ翌年には陸奥国鎮守将軍を兼ね、蝦夷征討に関して処置を奏上し戦果も挙げた。宝亀6年(775年)9月に参議に任ぜられて公卿に列し、同年11月には桃生城へ攻め寄せた蝦夷を鎮圧した。宝亀7年(776年)7月7日卒去。即日従三位の贈位を受けた。

伴 氏上 大伴潔足

 嵯峨朝にて少内記・大内記を務める。淳和朝では尾張守や左少弁など内外の諸官を歴任。
 天長10年(833年)仁明天皇の即位に伴って右中弁に叙任される。翌承和元年(834年)第19次の遣唐使が派遣されることが決まると、造舶使長官に任ぜられ遣唐使船の築造を担当する。承和3年(836年)7月に遣唐使船は大宰府から唐に向け出航するが、渡海は失敗して7月から8月にかけて全ての船が九州各地に漂着した。そのため、9月に氏上は修理遣唐舶使長官に任ぜられ、遣唐使船の修理に当たっている。
 漢詩人として『凌雲集』に漢詩作品1首が採録されている。

 聖武朝末から孝謙朝にかけて越前掾を務め、東大寺が越前国桑原庄の土地を購入した際の証書に関係者としてもその名が見える。天平宝字2年(758年)各地方に問民苦使が派遣された際、山陰道に派遣される。
 淳仁朝では式部少丞を経て、天平宝字8年(764年)礼部少輔に叙任。のち、称徳朝後半から光仁朝初頭にかけて因幡国の国司を務める。
 宝亀3年(772年)4月に治部大輔に任ぜられ京官に復す。しかし、同年9月に地方の政情調査を目的に各地方に五位の官人が派遣された際に覆損使として山陽道に派遣、宝亀7年(776年)正月に各地方の正税を調査するために検税使が派遣された際に東海道に派遣、同年3月に播磨守に補任されるなど、その後も引き続き地方行政に携わっている。
 桓武朝では参議に任ぜられ公卿に列している。延暦11年(792年)10月2日卒去。享年77。

大伴古麻呂 大伴継人

 天平2年(730年)大宰帥・大伴旅人が任地で病臥した際に、遺言を受けに大伴稲公と共に九州に赴いている。天平4年(732年)遣唐留学生に選ばれ、翌年唐に渡る。帰国にあたって唐人の陳延昌に託された大乗仏典を日本にもたらす。
 天平勝宝2年(750年)再び遣唐使節(副使)に選ばれる。帰国にあたって、古麻呂は鑑真を独断で密かに副使船(第二船)に乗船させる。帰路、大使船は暴風雨に遭ったが、副使船は阿児奈波嶋(沖縄)を経由して無事12月に九州に到着。鑑真を来日させることに成功した。同年4月に渡唐の功労により同じく副使であった吉備真備とともに、左大弁にも任ぜられた。絵巻物である『鑑眞和上東征傳』に大伴古麻呂が登場する。
 当時、孝謙天皇の厚い信任を受けていた藤原仲麻呂の専横が著しかったため、古麻呂はこれに不満を持ち兵部卿・橘奈良麻呂と結んで仲麻呂を除こうと画策する。奈良麻呂・古麻呂らが一味して兵を起こして田村第を包囲して仲麻呂を殺して皇太子を退け、孝謙天皇を廃して塩焼王・道祖王・安宿王・黄文王の四王の中から天皇を推戴するという謀反計画であった。しかし、計画は露見し古麻呂は奈良麻呂・道祖王・黄文王らと共に捕えられ、拷問の末に絶命した(橘奈良麻呂の乱)。

 宝亀8年(777年)6月に遣唐判官として渡海、翌宝亀9年(778年)3月には皇帝の代宗への拝謁を果たす。同年9月に第一船に乗船して帰国の途に就くが、船は海上で風浪を受けて中央から真っ二つに分断して難破してしまう。大使・小野石根や唐使・趙宝英らが遭難する中、継人は入唐大使・藤原河清の娘・喜娘ら40数名と共に舳先に辛うじてしがみつき、何とか肥前国天草郡西仲嶋(現在の鹿児島県出水郡長島)に漂着する。同年11月に平城京に戻り復命を果たした。
 宝亀10年(779年)4月に先の遣唐使節に対する叙位が行われ、継人は従六位上から三階昇進した。その後、能登守,伯耆守,近江介と光仁朝末から桓武朝初頭にかけて地方官を歴任した。また、この間の天応元年(781年)4月に光仁天皇が危篤に陥った際には美濃国不破関の固関使を務めている。
 延暦4年(785年)桓武天皇の行幸中に長岡京にて藤原種継が暗殺されると、主謀者として兄弟の大伴竹良と共に捕らえられ処刑された。子の国道も縁坐して佐渡国への流罪となった(藤原種継暗殺事件)。21年後に罪を赦され、正五位上の位階を贈られている。

伴 国道 伴 善男

 延暦4年(785年)父・継人が藤原種継暗殺事件に関与し処刑され国道も連座して佐渡国への流罪となる。佐渡では国道が聡明で優れた人物であるとして、国守は彼を優遇して師友と仰ぎ、問題が発生した際には対処を決定させ、公文書も作成させるなど行政を補佐させたという。桓武朝末の延暦22年(803年)恩赦により平安京に戻る。
 嵯峨朝初頭の弘仁2年(811年)陸奥少掾に任ぜられる。その後は宮内少輔・民部少輔・伊予介などを歴任し内官(在朝官人)と外官(地方官)の両方で優れた業績を残した。
 弘仁14年(823年)4月に淳和天皇の即位に伴って従四位下・左中弁と弁官を務めながら急速に昇進し、同年5月には参議兼右大弁に任官して公卿に列した。また、淳和天皇の即位に際して、天皇の諱(大伴)を避けるために大伴宿禰姓から伴宿禰姓へ改姓している。
 天長2年(825年)、按察使と武蔵守を兼帯して東国の地方統治に携わった。天長5年(828年)陸奥按察使を兼ねて陸奥国に赴任するが、同年11月12日に赴任先で卒去。享年61。

 生誕地については父・国道の佐渡国配流中に生まれたとされるが、京で出生したとする説、あるいは元来は佐渡の郡司の従者で後に伴氏の養子になったという説がある。なお、大伴氏は弘仁14年(823年)の淳和天皇(大伴親王)の即位に伴い、避諱のために伴氏と改姓している。
 天長7年(830年)に校書殿の官人に補せられ仁明天皇に近侍すると、その知遇を受け次第に重用されるようになる。
 承和13年(846年)の善愷訴訟事件では、当時の事務慣例に沿って行った訴訟の取り扱いが律令に反するとして、左大弁・正躬王を始め同僚の5人の弁官全員を弾劾し失脚させる。
 その後は急速に昇進し、右大臣・藤原良房らと『続日本後紀』の編纂にも携わっている。清和朝に入って、貞観6年(864年)には大納言に至る。大納言への任官は天平2年(730年)の大伴旅人以来約130年ぶりのことであった。
 しかし、貞観8年(866年)閏3月、応天門が放火される事件が起こると、善男は左大臣・源信が犯人であると告発する。源信の邸が近衛兵に包囲される騒ぎになるが、太政大臣・藤原良房の清和天皇への奏上により源信は無実となる。8月になると応天門の放火は善男とその子・中庸らの陰謀とする密告があり、拷問を受けるも犯状否認のまま善男は犯人として断罪、流罪と決した。善男は伊豆国、中庸が隠岐国に流されたほか、伴氏・紀氏らの多くが流罪に処せられた(応天門の変)。貞観10年(868年)配所の伊豆で死去した。

伴 中庸 大伴三依

 貞観8年(866年)閏3月10日の応天門の変では大宅鷹取により善男・中庸父子らが犯人であるとの報告がされる。これは中庸が生江恒山と占部田主に命令して、大宅鷹取を殴傷してその娘を殺害させたことを恨んでのものとされる。
 当初、大宅鷹取は誣告の容疑で検非違使に拘禁されていたが、8月29日になって中庸は鷹取父娘殺傷の疑いで左衛門府に拘禁される。生江恒山と伴清縄が拷問を受けて、中庸が放火の実行犯であることを告白してしまい、中庸は9月22日に隠岐国への流罪となった。貞観18年(876年)配所にいた元孫・叔孫が平安京に召還され、代わりに平安京にいた子息の禅師麻呂が中庸の配所に送られている。鷹取父娘襲撃でも有罪と判断されたが、中庸については既に流罪となっていることを理由に処分を見送られている。
 元慶4年(880年)隠岐国司が恩赦が適用されるものと誤解して中庸を放免するが、翌元慶5年(881年)中庸が本貫へ戻るために因幡国に至ったところで因幡介・是主王が恩赦の適用に疑義がある旨朝廷に報告し、結局中庸と元孫・禅師麻呂は石見国に遷された。その後の消息は不明。

 天平元年(729年)頃に賀茂女王より贈られた和歌の内容から、神亀年間から天平年間初頭にかけて大宰帥・大伴旅人と共に筑紫に赴いていたと想定される。
 孝謙朝では主税頭・三河守などを務める。淳仁朝では仁部少輔・遠江守・義部大輔を歴任する一方で、天平宝字3年(759年)従五位上、天平神護元年(764年)正五位上と昇進している。
 称徳朝に入ると天平神護2年(766年)出雲守に任ぜられて地方官に転ずる。宝亀元年(770年)光仁天皇の即位と共に従四位下に昇叙される。宝亀5年(774年)5月25日卒去。最終官位は散位従四位下。
 『万葉集』に短歌4首が採録されている。また、同集内に作品1首が収められている大伴三林を三依と同一人物とする説もある。

大伴三中 大伴山守

 天平8年(736年)遣新羅副使に任ぜられて、同年秋頃に新羅に渡る。しかし、当時新羅との関係は悪化しており、使節としての使命は果たせなかった。さらに、伝染病に感染してしまい、大使の阿倍継麻呂は帰途の対馬で病死、三中は病気が回復するまで入京を許されず、翌天平9年(737年)3月になって拝朝を行っている。なお、遣新羅副使としての功労により、従六位下から三階昇進して正六位上に叙せられている。
 天平12年(740年)外従五位下に昇叙され、翌天平13年(741年)刑部少輔兼大判事に任ぜられる。兵部少輔を経て、天平17年(745年)大宰少弐に遷ると、天平18年(746年)長門守と一時地方官を務め、同年内位の従五位下に叙せられている。天平19年(747年)刑部大判事として京官に復した。

 和銅7年(714年)従六位上から三階昇進して従五位下に叙爵。
 霊亀2年(716年)遣唐大使に任ぜられ、霊亀3年(717年)留学生の阿倍仲麻呂・吉備真備らと唐に渡り、翌養老2年(718年)帰国。渡唐を通じて正五位下、養老3年(719年)正五位上に昇進。同年7月には遠江守に加えて按察使を兼任し、駿河国・伊豆国・甲斐国の各国の地方行政を監察した。

大伴子君 大伴子虫
 子君の名は、『日本書紀』の持統天皇7年(693年)3月乙巳(16日)条にだけ見える。その日に新羅への使者として息長老と大伴子君、学問僧弁通、神叡が絁(あしぎぬ)、綿、布を賜った。息長老は前年11月8日にやはり新羅への使者として川内連と共に禄を賜っているが、そこに子君は見えない。何かの事情で彼らの出発が遅れ、子君が連と交代したのではないかと推測される。出発、帰国の記事はない。

 当初、子虫は長屋王に仕えてその厚遇を受けていたが、神亀6年(729年)に発生した長屋王の変にて、中臣宮処東人からの誣告を受け、長屋王は自殺させられた。
 天平10年(738年)子虫が左兵庫少属を務めていた際に、たまたま隣にある右兵庫寮の長官(右兵庫頭)の任にあった中臣宮処東人と政務の合間に囲碁に興じていたが、話題が長屋王に及ぶにあたり、子虫は憤りを発して東人を罵り始め、遂には抜刀して斬殺してしまった。

大伴馬来田 大伴道足

 6月24日に大海人皇子が挙兵を決意して行動を起こすと、馬来田らは大海人皇子に味方することを決めた。吹負は大和に残って同志を募り、馬来田はまず吉野宮に行った。しかし大海人皇子は去った後で、馬来田は黄書大伴と共に皇子を追い、その日のうちに菟田(大和国宇陀郡)の吾城で追いついた。
 この後、吹負は大和方面の将軍として華々しい活躍をしたが、馬来田の軍功は伝わらない。戦場に立てば必ず指揮官のうちに名を挙げられたはずなので、馬来田は戦場に出なかったと推測できる。大海人皇子を補佐して後方にいたのであろう。
 戦後、馬来田が功により100戸を封じられたことが『続日本紀』大宝元年(701年)7月21日条から知られる。壬申の乱で大海人皇子に味方した氏族は中小のものが多く、馬来田は大伴氏を率いる立場にあって非常な高位にあってよいはずだが、『日本書紀』が記す天武朝の事績の中に馬来田の名は現れない。
 大伴望多(馬来田)は天武天皇12年(683年)6月3日に死亡した。天皇は大いに驚き、泊瀬王を遣わして弔問し、壬申の乱での望多の勲と、大伴氏の先祖が代々果たした功を述べさせ、賞を下した。大紫の位を贈り、鼓吹して葬った。厚い礼遇である。

 大宝4年(704年)従六位下から四階の昇叙により従五位下に叙爵。以降元明朝から元正朝にかけて、讃岐守・弾正尹・民部大輔などを歴任。讃岐守在任時の和銅6年(713年)には、同国寒川郡の物部乱ら26人が庚午年籍以来良人であったところ、持統天皇4年(690年)の戸籍改定の際に誤って飼丁の籍とされたとして、良人に編入すべき旨を言上し許可されている。
 神亀6年(729年)2月に発生した長屋王の変に際して、大宰大弐・多治比縣守、左大弁・石川石足と共に臨時で参議に任ぜられ、同年正四位下・右大弁に叙任された。天平2年(730年)勅を受けて擢駿馬使として大宰府に下向するが、その際に大宰帥・大伴旅人の邸宅で催された歓迎の宴で葛井広成が詠んだ和歌が『万葉集』に採録されている。天平3年(731年)7月に薨去していた大伴旅人に代わって、同年8月に諸司の主典以上の官人の推挙を受けて、大伴氏の代表として参議に任ぜられ公卿に列した。同年南海道鎮撫使。議政官として右大弁を兼任したが、天平7年(735年)阿倍帯麻呂らによる殺人事件について、遺族の訴えを審理せず放置したとして左中弁・高橋安麻呂らと共に断罪されるも、聖武天皇の詔により赦されている。
 没年不詳だが、一説では天平13年(741年)没とする。最終官位は参議正四位下。

大伴伯麻呂 大伴吹負

 孝謙朝の天平勝宝2年(750年)従五位下に叙爵。天平勝宝4年(752年)東大寺の大仏開眼供養会で久米舞の舞頭を務め、同年上野守に任ぜられる。天平勝宝8歳(756年)聖武上皇崩御に際して山作司を務めた。しかし、藤原仲麻呂政権下では最末年の天平宝字8年(764年)正月に伊豆守に任ぜられた程度で官職に就いた記録に乏しい。
 同年発生した藤原仲麻呂の乱終結後まもない10月に左衛士佐に任ぜられると、翌天平神護元年(765年)正月に従五位上・右少弁、天平神護2年(766年)道鏡が法王に任ぜられてまもない11月に正五位下、さらに同年12月には称徳天皇の西大寺行幸に際し正五位上に叙任されるなど、称徳朝では一転して順調に昇進する。神護景雲3年(769年)従四位下・員外左中弁に叙任される。また、同年12月には新羅使に対して来朝理由を問うために大宰府に派遣されている。
 宝亀元年(770年)光仁天皇の即位後右中弁に任ぜられ、翌宝亀2年(771年)他戸親王の立太子に際してその春宮亮を兼ねる。光仁天皇の寵遇を受け、宝亀2年(771年)従四位上、宝亀6年(775年)正四位下と順調に昇進する傍ら宮内卿を務め、宝亀9年(778年)には参議に任ぜられ公卿に列した。宝亀10年(779年)左大弁を兼ねる。また、宝亀11年(780年)には新羅使に対して天皇の勅を伝える役を務めた。
 天応元年(781年)桓武天皇の即位ののち正四位上に叙せられ、衛門督・中宮大夫を兼任する。また、同年12月に光仁上皇が崩御すると御装束司を務めた。
 天応2年(782年)正月に従三位に昇叙されるが、同年2月3日薨去。享年65。最終官位は参議従三位中宮大夫兼衛門督。一説では同年正月に発生した氷上川継の乱に連座して解官されたともいう。

 天智朝では兄・馬来田と吹負は病を称して自宅に退いた。天武天皇元年(672年)6月24日に大海人皇子が挙兵のために東に向かうと、馬来田はその後を追い、吹負は家に留まった。吹負は倭京の軍の指揮権を奪取し成功を大海人皇子に報じ、将軍に任命された。周辺地域の豪傑が吹負の下に集まり、近江を襲う作戦を立てた。
 吹負の軍は7月1日に及楽(奈良)に向かった。4日に及楽山で大野果安が率いる近江軍と会戦し敗れて逃げた。その頃、西に派遣された部隊も敗れて退却した。果安は南に進んで倭京を遠望したが、伏兵があるのではないかと考えて引き上げた。
 逃げた吹負は置始菟の騎兵隊に墨坂で出会った。これは美濃国から吹負のために送られた紀阿閉麻呂ら数万の軍の先遣隊であった。金綱井で敗兵を集めた吹負は、壱伎韓国の軍、犬養五十君の軍、廬井鯨の小部隊と戦い勝利した。吹負は倭京に引きあげ、以後近江軍は奈良盆地に進攻してこなかった。
 以上の一連の戦いの終わり頃に、近江国では味方の村国男依らが前進を始めた。彼らは7日から交戦を始め、連戦連勝して大津に迫った。7月22日に吹負は他の諸将を北進させ、自らは難波に向かった。同日、近江では大友皇子の軍が瀬田で敗れ、翌日に皇子は自殺した。
 壬申の乱の戦域は大別して近江と倭の二つあり、吹負はその一方の主将として活躍して大きな功績を立てた。しかしながら吹負の乱後の活動は『日本書紀』に記されない。天武天皇12年(683年)8月5日卒去。壬申の乱における功労によって、大錦中の冠位を贈られた。
 『続日本紀』は天平勝宝元年(749年)閏5月29日の大伴牛養死亡の記事に、「贈大錦中小吹負の男」と記す。また宝亀8年(777年)8月19日の大伴古慈斐の死亡記事は「飛鳥朝の常道頭、贈大錦中小吹負の孫」と書き、あわせて古慈斐が祖父麻呂の子であることも記す。

大伴牛養 大伴古慈斐

 和銅2年(709年)従六位上から三階昇進して従五位下に叙爵し、翌和銅3年(710年)遠江守に任ぜられる。のち、和銅7年(714年)従五位上、養老4年(720年)正五位下と元明朝から元正朝にかけて順調に昇進した。養老5年(721年)には左衛士督として右衛士督・日下部老と共に、父母との離別が長期間に亘るため衛士の逃亡が多発していることを理由に、衛士の役務年数を3年に短縮するよう奏上し、認められている。
 聖武朝前半は、神亀6年(729年)に発生した長屋王の変の影響を受けたためか、叙位任官の記録がない。天平9年(737年)藤原四兄弟が相次いで没してまもなく正五位上に昇叙されると、聖武朝半ばより急速に昇進し、天平10年(738年)従四位下・摂津大夫を経て、天平11年(739年)参議に任ぜられ公卿に列す。
 議政官として、摂津大夫・兵部卿を兼ねる一方、天平15年(743年)従四位上に昇叙される。この間の天平14年(742年)紫香楽行幸に際して平城留守司、天平16年(744年)難波行幸に際して恭仁宮留守司と、聖武天皇の行幸に際して旧京の留守役を務めている。天平17年(745年)正月の紫香楽宮遷都に際して、急な造都であったことから本来その役割を担うべき石上・榎井両氏を召集できなかったため、衛門督・佐伯常人と共に大楯と槍を宮の門に立てる役割を務め、まもなく三階昇進して従三位に叙せられる。天平18年(746年)に七道に対して鎮撫使が再設置されると、山陽西海道両道の鎮撫使を兼ねた。
 天平21年(749年)4月に正三位・中納言に叙任されるが、同年閏5月29日薨去。最終官位は中納言正三位。

 はじめ大学大允に任官したのち、天平9年(737年)従六位上から四階昇進して外従五位下に、天平11年(739年)内位の従五位下に叙せられる。翌天平12年(740年)聖武天皇の東国行幸に従って伊勢国鈴鹿郡赤坂の頓宮で従五位上、天平14年(742年)正五位下。天平19年(747年)従四位下、天平勝宝元年(749年)従四位上と聖武朝において順調に昇進し、天平勝宝年間に衛門督を務めた。また、この間の天平18年(746年)河内守在任時に、同国古市郡にて尾張王が白い亀を捕獲した旨を上申したが、これが瑞祥とされ従六位以下の諸官が一階の昇叙を受けている(正六位以上は田租の免除)。
 孝謙朝に入ると一転して昇進が止まり出雲守に左遷される、さらに聖武天皇崩御直後の天平勝宝8歳(756年)には紫微令・藤原仲麻呂の誣告を受け、朝廷に対する誹謗を行い臣下の礼を失したとの理由により、内豎(天皇の身近に仕える少年)の淡海三船と共に衛士府に拘禁され、3日後に赦免となった。のち土佐守に遷されて任地に赴くが、翌天平宝字元年(757年)橘奈良麻呂の乱に連座して、そのまま任国である土佐国への流罪となった。
 宝亀元年(770年)光仁天皇の即位後まもなく罪を赦されて本位である従四位上に復位し、大和守に任ぜられる。宝亀2年(771年)大嘗祭に際して、左大弁・佐伯今毛人と共に南門を開く役を務め、この功労により正四位下に昇叙される。宝亀6年(775年)昔の事柄に詳しい老臣として従三位に叙せられ公卿に列す。 宝亀8年(777年)8月19日薨去。享年83。最終官位は大和守従三位。

大伴弟麻呂 大伴須賀雄

 光仁朝末の宝亀10年(779年)従六位上から三階昇進して従五位下に叙爵し、翌宝亀11年(780年)衛門佐に任ぜられる。
 天応元年(781年)従五位上・左衛士佐に叙任される一方、同年に即位した桓武天皇の生母である皇太夫人・高野新笠のために中宮職が設置された際に、その次官(中宮亮)を兼ねている。延暦元年(782年)常陸介、翌延暦2年(783年)征東副将軍と一時東国の地方官を務める。延暦6年(787年)右中弁次いで左中弁と京官に復帰し、延暦7年(788年)正五位下に昇叙され皇后宮亮を兼ねた。
 延暦10年(791年)従四位上・征夷大使に叙任されるが、延暦11年(792年)11月に一旦征夷大使の辞表を提出し、翌延暦12年(793年)2月には征夷副使・坂上田村麻呂も辞表を提出している。しかし、結局両方とも認められなかったらしく、延暦13年(794年)正月に弟麻呂は征夷大将軍として節刀を賜与され、同年6月には副将軍の坂上田村麻呂が蝦夷征討で大きな戦果を挙げる。延暦14年(795年)正月に節刀を返上して、2月には征討の功労により従三位・勲二等に叙せられた。
 その後、蝦夷征討の任務は田村麻呂[延暦16年(797年)征夷大将軍]が取って代わり、弟麻呂は東宮傅・治部卿と京官を歴任する。延暦25年(806年)老いて衰えたことを理由に辞職を願い出て許される。大同4年(809年)5月28日薨去。享年79。

 大伴和武多麻呂または伴勝雄の子。官位は因幡権守。
 承和年間に備後権掾を務める。この間の承和5年(838年)遣唐使に別請益生として随行し長安へ入京、翌年無事帰国している。嘉祥3年(850年)文徳天皇の即位後に従五位下に叙爵し、文徳朝では土佐権守・紀伊介・縫殿頭を歴任する。
 清和朝に入り、貞観2年(859年)従五位上に昇叙され、引き続き縫殿頭を務める一方、但馬介/守も兼任した。陽成朝では、主殿頭・因幡権介を務める傍ら、元慶元年(877年)従四位下、元慶6年(882年)従四位上に至っている。