中国(秦王朝)渡来系

SM02:島津忠宗  島津忠久 ― 島津忠宗 ― 樺山資久 SM16:樺山資久

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樺山善久 樺山忠助

 樺山氏は島津宗家4代・忠宗の子である資久を祖とする家で、日向国樺山を領したことから樺山姓を名乗った一族である。善久は永正10年(1513年)、その7代目である樺山広久の子として誕生、島津宗家に仕えて、島津忠良の次女・御隅を正室とした。また和歌を好み、近衛稙家に拝褐して古今伝授を受け、飛鳥井雅綱から蹴鞠を習った。
 天文8年(1539年)に主君・島津貴久が市来の平良へ出陣した湯田口合戦の際、手負いと成りながらも敵将の小野左近を討ち取る功をなし、大隅国向島郷(のちの桜島)の松浦と二俣を賜った(後に藤野に転封)。
 天文17年(1548年)に本田氏が領内で争乱を起こすと、島津忠良から盃を受け自ら家臣100人を率いて生別府へ出陣し清水城を攻め落とした。その折、城から逃亡した本田薫親が城内の書院に「立訓し 槇の柱もわすれなよ 帰り来てあふ 世あるやと」と書き付けたのを見つけると、善久は「流れ出て 浮ふ瀬もなき 水茎の あとはかなくも 頼をくかな」と返歌を読み、それを書いた短冊を矢に結わえて、逃亡する本田勢へと追い付くとその矢を放った。これに感心した島津義久から褒美を受けている。
 永禄5年(1562年)、北原氏の旧臣である白坂下総介が北原家再興を願い出た際は、善久が主君・島津貴久と下総介の仲介役を務めた。元亀元年(1570年)に大隅の小浜,堅利の替えとして横川へと移り住んだ。天正11年(1583年)、義久が病を患うと、日向国高岡の法華嶽薬師寺へ17日間籠って平癒のための和歌を百首詠んでいる。文禄元年(1592年)、文禄・慶長の役において島津義弘が朝鮮に渡海した際に、善久は老年のために出陣が許されなかったことに憤り、「君か為 名のため取りし 梓弓 八十余りの 身こそつらけれ」との歌を詠んでいる。
 文禄4年(1595年)に死去。享年83。長男の忠副は弘治3年(1557年)に蒲生氏・菱刈氏との戦い(纒頭の戦い)で討ち死にしたため、次男の忠助が跡を継いだ。 

 天正元年(1573年)、島津氏に降伏した大隅国の禰寝重長が肝付氏に攻められた際、これを救うべく出陣、肝付氏を西俣に破り功を為した。同3年(1575年)に犬追物が行われた際、忠助は射手として11匹を射る程の活躍を見せ、その腕前から毎年の犬追物での射手となり、天正4年(1576年)に琉球の使者を饗応する犬追物での射手も務めた。同年、伊東氏の高原城攻めにも出陣、その後、日向国穆佐の地頭に任じられる。但し耳川の戦いの頃に穆左は嫡子の規久に任せ、自身は大隅の堅利に住んだ。
 天正12年(1584年)の岩屋城攻めにも出陣、忠助は大石に兜を砕かれ、矢玉による無数の傷を負いながらも奮戦し、ようやくこれを落としたが、その退き陣の際に病を得て堅利へと戻った。但し数ヶ月後に治癒すると再び豊後攻めへと戻り功を為した。
 慶長14年(1609年)に出水にて病没。
 樺山忠助の妹が島津家久の妻であることから戸次川の戦いなど家久と行動することも多く、『樺山紹劔自記』において「島津義弘が家久の戦功を妬む様は総大将に相応しい振る舞いではない」と、島津四兄弟の中にも諍いがあったことをうかがわせる記述を残している。 

樺山久高 樺山久言

 樺山氏は島津氏の一族で、久高はその13代目の当主である。当初、島津氏重臣・大野忠宗の婿養子となり大野七郎忠高と称した。天正4年(1576年)の高原城攻めや、天正12年(1584年)の沖田畷の戦いに従軍、天正13年(1585年)の堅志田城攻めでは敵2人を討ち取り、天正14年(1586年)の勝尾城攻めでは敵と組打ちし、手負いとなりながらも討ち取っている。同年の岩屋城攻めでは一番首の功名をなした。また同年、島津義弘の陣に属して豊後国入りし、犬童頼安,犬童頼兄と共に坂無城の番を仰せつかった。
 天正14年(1586年)、豊臣秀吉の九州征伐の際、肥後国の豪族が離反し坂無城へ攻め寄せようとすると、新納忠元,伊集院久春と共に敵陣を破り、敵100名を討ち取って無事に薩摩国への帰国を果たした。島津氏が秀吉に降伏した後は、小田原征伐に向かう義弘の次男・島津久保の供をした。
 天正19年(1591年)4月27日、義父の忠宗が島津義久の命により誅殺されると、これに伴い忠高も加世田に蟄居した(後に蟄居先は谷山に)。しかし、義弘より文禄の役へ参戦する久保の供をするよう命が降り、離婚して樺山姓に復すと樺山権左衛門久高と改名し、200石を加増され家老に任じられた。
 文禄2年(1593年)、久保が病死すると一時帰国するも、再び朝鮮へ渡海し泗川の戦いや李氏朝鮮の武将・李舜臣の水軍を破るなど(露梁海戦)、甥の樺山忠正と共に功をなした。帰国後の慶長4年(1599年)6月、甥の忠正が嗣子無く伏見にて病死すると、久高が樺山氏を継ぎ、島津忠恒(家久)の代にも家老として重用された。慶長12年(1607年)に出水の地頭に任じられる。慶長14年(1609年)の琉球侵攻においても、首里城を落とすなどの武功を立てて、島津氏の琉球支配に貢献した。寛永5年(1628年)に伊作の地頭となり、同年出家し「玄屑」と号した。しかし、領地の加増を訴えるも主君・家久には無視され、跡取りの息子にも先立たれて失意の晩年を送った。寛永11年(1634年)、病死。享年75。墓所は鹿児島県日置市の多宝寺。 

 父は新納氏からの婿養子であったが、後に両親が離婚、樺山家の嗣子となった久言は祖父の手で育てられた。また、一門家島津忠貫の義兄にあたる。
 文化2年(1805年)、島津斉宣の命により、家老に就任。但し一門家重富島津家当主で親族の島津忠貫が藩主名代で命じる。
 30歳の家老就任は当時としては若年での就任であり、異例のことであった。この抜擢には久言が属していた派閥「近思録」派の人材が緊急の財政改革において必要と思われていたからと考えられる。久言は、「近思録」派の首領であり下級藩士であった秩父季保を斉宣に推薦し、その後。文化4年(1807年)~文化5年(1808年)初頭において薩摩藩の財政改革のリーダーとなった。しかし、その改革内容が島津重豪の不興を買う原因となり、文化5年5月8日に重豪に隠居を命じられ、私領のある藺牟田に蟄居させられる。その後も重豪より親族に対する嫌がらせをたびたび受け、同年9月26日に自害に追い込まれた。
 久言は私領では領民に慕われた領主であったらしく、死後、重豪の圧力で久言の墓が作られなかったため、領民が地蔵を建てて久言を供養していたという。 

樺山資紀 樺山愛輔

 薩摩藩士・真木家の3男、政治的な問題により樺山家の養子になる。警視総監(第3代),海軍大臣(第2代),海軍軍令部長(第6代),台湾総督(初代),枢密顧問官,内務大臣(第15代),文部大臣(第14代)を歴任した。
 薩英戦争・戊辰戦争に従軍の後、明治4年(1871年)に陸軍少佐に任ぜられ、明治5年(1872年)より南清に出張、台湾出兵に従軍。西南戦争では熊本鎮台司令長官・谷干城少将の下、同鎮台参謀長として熊本城を死守する。その後、警視総監兼陸軍少将に昇進するが、海軍へ転じ、明治16年(1883年)に海軍大輔、同19年(1886年)には海軍次官となる。
 国政では明治23年(1890年)から同25年(1892年)にかけての第1次山縣内閣と第1次松方内閣で海軍大臣をつとめる。第2回帝国議会において、政府提出の軍艦建造案が「海軍部内の腐敗が粛清されなければ予算は認められない」と否決されると激昂、薩長藩閥政府の正当性と民党の主張する「経費節減」「民力休養」を批判する趣旨の発言(いわゆる「蛮勇演説」)を行う。民党の反発により議場は騒然となり、予算は不成立となった。
 日清戦争直前に海軍軍令部長に就任する。明治28年(1895年)に海軍大将に昇進する。同年5月10日、初代台湾総督に就任、台北に総督府を開庁する。
 その後も枢密顧問官,第2次松方内閣で内務大臣,第2次山縣内閣で文部大臣を歴任した。なお、第2次松方内閣の内務大臣であった明治29年(1896年)11月12日、改正条約発効の準備のための改正条約施行準備委員会委員長に就任している。
 明治38年(1905年)11月20日に後備役となり、同43年(1910年)11月20日に退役した。大正11年2月8日薨去。享年84。

 1878年、米国に留学。1885年、コネチカット州ウェズリアン大学に入学。その後、1887年にアマースト大学に編入。アマースト大学卒業後はドイツ・ボン大学に学ぶ。実業界に入り、函館ドツクや日本製鋼所,十五銀行などの役員を務める。1922年、父・資紀(海軍大将,伯爵)の死後、爵位を襲爵した。1925年7月10日に貴族院議員に選任され、1946年6月13日まで務めた。1930年のロンドン海軍軍縮会議には随員として参加。太平洋戦争中は、近衛文麿や原田熊雄,吉田茂,盟友の松平恒雄などと連携していわゆる「ヨハンセングループ」の終戦工作に従事した。1946年、枢密顧問官に就任。翌年日本国憲法の施行により枢密院廃止。公職追放となる。
 20年以上の滞米経験から米国内に多くの知己を持ち、日米協会会長や国際文化振興会顧問,国際文化会館理事長,ロックフェラー財団などの国際的文化事業にも携わった。墓所は染井霊園。