中国(秦王朝)渡来系

SM01:島津忠久  秦 酒公 ― 惟宗永厚 ― 島津忠久 ― 伊集院久兼 SM19:伊集院久兼

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伊集院忠国 伊集院久氏

 南北朝の争乱が起きると、当初は島津貞久とともに足利尊氏に協力していた。足利尊氏が南朝方に敗れ九州に落ち延びると、貞久の招きに応じて北九州に出陣し、筑後の南朝方豪族・菊池氏を討つ。薩摩に戻った忠国だったが、延元2/建武4年(1337年)、懐良親王が征西将軍に任命され、先遣として南朝方公家の三条泰季が薩摩へ到着するや、南朝方に属して居城の一宇治城で挙兵する。南朝方に属した薩摩の豪族は多かったが、島津一族の中で忠国は唯一南朝方に属した人物であった。
 同年7月、忠国ら南朝方は伊作へ侵攻、伊作家島津久長の率いる北朝方と交戦するも勝敗は決しなかった。当時京都で戦っていた貞久は本領の危機を知り、長庶子の川上頼久,久長の子である島津宗久を急ぎ帰国させ、南朝方討伐に向かわせる。頼久らは帰国すると伊集院方の市来院を包囲。忠国は市来院を救うため出陣するも、2か月後には城を放棄することになる。市来院城の陥落後、忠国は南朝方の豪族とともに大隅の肝付兼重を援護、南薩地方で北朝方と戦う。延元3/暦応元年(1338年)、忠国は部将の村田如厳に命じ、給黎院領主の和泉実忠を攻撃させる。村田如厳は給黎院の2城を落とし薩摩へ侵攻、島津本家の居城である碇山城を包囲するも、激しい抵抗に遭い3ヶ月後に包囲を解いている。
 興国元/暦応3年(1340年)、島津貞久が帰国して南朝方を攻撃すると、忠国は一宇治城を放棄し平城へ逃亡。鹿児島の南朝方の城が次々と陥落する中、忠国は勢力の建て直しを計り、貞久が鹿児島を離れると肝付兼重とともに鹿児島の城を奪回する。興国3/康永元年(1342年)、懐良親王が薩摩に到着すると、忠国はじめ薩摩・大隅の南朝勢力は親王が居城とした谷山城に集まる。貞久は急ぎ谷山城を攻めるも敗退、貞久の子・氏久も負傷するなど南朝方優位の状態が続く。忠国は観応元/正平5年(1350年)には郡山の松尾城を陥落させ、郡山以南の地を南朝方の支配下に組み込んでいる。
 島津宗家と対立していた忠国は『島津家文書』などで「兇徒」「賊徒」などと記されているが、明治になって南朝への忠勤が認められ、従三位の位が贈られている。  

 室町時代前期の武将で薩摩守護島津氏の一族伊集院氏6代当主。南北朝時代の動乱が始まると、島津宗家は足利尊氏に従い続けていた。父・忠国は島津一族の中で唯一南朝方に属していたが、久氏は島津本家が薩摩の混乱を収拾するため南朝方に降伏すると、ともに南朝軍として戦っている。
 建治2年(1371年)、幕府は九州を平定するため九州探題として今川了俊(貞世)を派遣する。南朝方の菊池氏攻めに際し、了俊が反抗的な態度をとった少弐氏当主・少弐冬資を謀殺すると、島津家6代当主・島津氏久は了俊と決別。了俊が氏久討伐の軍を起こすと、久氏は了俊から氏久討伐に参加するよう誘われるもこれを断り島津本家に加勢、島津勢は今川勢を退けている。
 久氏は本家との結びつきをより堅固なものにしようと考え、自分の子である頼久の室に氏久の娘を貰い受ける。彼女は島津宗家7代・元久の妹でもあり、以後島津家の中で伊集院氏はさらに大きな勢力となった。

 

伊集院頼久 伊集院煕久

 応永16年(1409年)、室町幕府より島津元久が薩・隅・日三州の守護に任命されると、御礼の使者として先遣に任ぜられる。頼久は元久が上京する一年前から準備を整え、翌年、元久が将軍・足利義持に面謁した際の献上品は幕府の高官を驚かせただけではなく、天下の評判ともなった。
 1411(応永18)年、北薩の渋谷重頼が薩摩郡の豪族を率い元久に叛旗を翻し、当時、頼久が居城としていた入来清色城を包囲する。清色城の兵もしばしば頼久に背き渋谷氏に応じたため、頼久は身の危険を感じ伊集院へ退却、清色城及び薩摩郡は渋谷氏の手に落ちる。渋谷氏との戦いの中、守護の元久が病に倒れる。元久の子は出家していて家督を継ぐことができなかった。また弟の久豊は日向の伊東氏に備えるため日向・大隅国境に駐屯していたが、その際に伊東氏から妻を迎えていたため元久との仲は険悪であり、後継者に指名されなかった。このような状況から頼久は自分の息子で元久の甥にあたる初千代丸(後の煕久)を後継者とするよう病床の元久に勧める。元久が死去すると、頼久は熙久を後継者にするという遺言があった、と公表した。これを聞いた久豊は鹿児島へ戻り、元久の葬儀中に位牌を熙久方から奪って葬儀を行い、8代・守護に就いた。
 面目を潰された形になった頼久は、応永20年(1413年)、久豊が渋谷氏討伐のため居城清水城を出た隙を狙い、城を陥落させる。しかし久豊の逆襲にあい敗走、豪族の吉田清正,蒲生清寛のとりなしで死を免れる。翌年、頼久は再び挙兵し麦生田で一度は敗退するも、総州家の島津久世を味方につけ久豊を敗走させる。頼久は自分の領地でかつ元々総州家の所領であった川辺を久世に与え、自らは川辺平山城に移った。久豊が反撃に出て久世を殺害すると、久世の遺臣らは久世の子・久林を立てて川辺平山城に篭城する。
 応永24年(1417年)、久豊が平山城を包囲すると頼久は救援に向かい優位に戦を進め、久豊を包囲する。両者は豪族吉田清正の仲介で和解することとなるも久豊の家臣団が頼久を急襲、逆に頼久が助命を請う事態となる。二人は元々従兄弟であったことから、久豊が後妻として頼久の娘を娶ることで和解に至る。久豊は和解の条件として、伊集院氏に従来通り伊集院の支配を認めた。頼久は熙久に家督を譲ると川辺平山城で隠居、この地で没する。後に伊集院頼久の乱と呼ばれる争いはこうして幕を閉じた。 

 島津久豊が死去、子の忠国が守護の地位を継ぐと、石谷の地が町田高久に与えられた。石谷の地は先代久豊と頼久が和解し、その条件として頼久の娘(熙久の姉)が久豊に嫁いだ際、伊集院側から化粧料として贈られた土地であった。既に久豊も煕久の姉も亡くなっており、石谷の地が町田氏に与えられることに不満を覚えた煕久は、宝徳元年(1449年)、町田(石谷)高久を居城の一宇治城に招き妙円寺の山門付近で高久らを迎え討ち、彼を殺害する。これを聞いた忠国は激怒、翌年に一宇治城を襲撃、熙久は城を脱出して肥後に逃亡した、といわれているが詳細は不明。
 かくして伊集院領主として忠国,頼久,熙久の代には島津本家を凌ぐ領地を支配していたと伝えられる伊集院家は凋落し、伊集院領は島津家の直轄領となった。後に煕久の孫・久雄は島津家に帰参し江戸時代まで家名を保つ。また戦国時代、島津家の重臣として知られる伊集院氏は煕久の弟・倍久の流れである。  

伊集院忠棟 伊集院忠真

 島津氏の家臣・伊集院忠倉の子として誕生。初名は忠金で天正4年(1576年)までには忠棟と改名している。早くから島津義久に仕え、筆頭家老として島津氏の政務を取り仕切った。武将としても肥後国や筑前国などの出兵で多大な功績を挙げている。また、歌道にも優れ、細川藤孝と親交があり、豊臣秀吉の九州出兵以前から、豊臣氏と和睦の交渉を進めていたという。
 天正15年(1587年)、秀吉率いる大軍の前に島津軍が次第に劣勢となると、忠棟は抗戦を主張する義久やその弟・義弘らに降伏を説いた。しかし、島津氏は秀吉との戦いを継続する。同年4月17日、義久,義弘が2万人の精鋭をもって豊臣秀長の陣を攻撃した際(根白坂の戦い)に、左軍の北郷時久の突撃との声を合図に、右軍を任されていた忠棟が進軍する手はずであったが、忠棟は聞こえなかったなどという理由で全く進軍しなかった。結果、北郷勢からは多数の死傷者が出て島津軍は退却を余儀なくされ、敗北を喫した。戦後、忠棟は剃髪して自らを人質として秀吉に降伏、島津家の赦免を願い出ており、義久らの説得に当たった。この時の忠棟の弁明により、島津氏存続が達成できたと評価する説もある。
 秀吉は忠棟の能力を高く評価し、九州征伐後には直々に肝属一郡を与えられた。以降は島津家の宿老として豊臣政権と直接交渉することが多くなり、石田三成ら奉行衆と昵懇になった。文禄4年(1595年)には領内で太閤検地が行われ、北郷氏に代わり日向諸県郡庄内の地に8万石の所領を与えられた。また、検地後の知行配分の責任者となったため、家中からの不満が彼に集中した。この後、権勢を誇るようになったため、島津宗家からも危険視されるようになった。
 そして、慶長4年3月9日(1599年4月4日)、伏見の島津家邸で義弘の子・忠恒によって殺害された。忠棟夫人はことの次第を徳川家康に直訴すること3日に及んだが、家康は夫人の話す薩摩方言が理解できなかったという。また、洛北高雄の普賢院の僧が島津義弘の家臣に宛て、忠棟夫人と子らが方々で怨敵(=忠恒)退散の祈祷を頼んでいるので、忠恒の身辺に用心して欲しいという手紙を送ったという。
 忠棟の死後、嫡男の忠真が家督を継いだが、領地の日向都之城に籠り庄内の乱を起こした。  

 父同様島津氏に仕え、慶長の役に出陣し、泗川の戦いでは忠真の部隊は6,500以上の首を挙げたとされる。ところが、慶長4年(1599年)、父・忠棟が権勢を誇りすぎていたとして島津忠恒によって殺害されると、その跡を継ぐとともに居城の日向国庄内の都城に立て籠もり、島津氏に対して公然と反旗を翻した(庄内の乱)。
 翌慶長5年(1600年)に徳川家康の仲介のもと一旦は和睦が成立したが、忠真は再び背いた。これは忠真が島津氏からの支配を離れ他家へ奉公を希望していたが、忠恒がこれを絶対に認めなかったためといわれる。そのため家康が再度仲介し、忠恒が頴娃1万石を忠真に宛てがうことで和睦が成立し、遂に忠真は島津氏に帰属した。忠真は島津義弘の次女を娶っており、乱後は義弘の屋敷に預けられていたようである。しかし、帰属後も島津義久,忠恒はこれを警戒し、関ヶ原の戦い直前において関ヶ原本戦に出陣した義弘が再三にわたり自国に対し派兵を催促したが、乱を恐れ大規模な派兵を行えず、そのため義弘は関ヶ原において大大名らしからぬ少数ゆえの苦戦を強いられたといわれている。
 慶長7年(1602年)、関ヶ原の戦いでの謝罪のために忠恒は伏見へ上洛することになり、忠真もこれに従ったが、日向野尻での狩りの最中に忠恒の命により討たれた。なお、庄内の乱後にそれぞれ別の島津家家臣の屋敷に身柄を預けられていた弟の小伝次,三郎五郎,千次,忠真の母は、忠真が討たれた日に全員が殺害され、伊集院一族は皆ことごとく粛清された。忠真の死は対外的には淵脇平馬の誤射によるものとして処理され、淵脇は切腹となった。しかし、数年後に遺族は上級家臣である城士に取り立てられており、島津家による褒賞が行われたと見られる。
 なお、忠真には男子はなかったが、千鶴という一人娘がおり、忠真の死後、忠恒の養女となり、松平定行の後室となった。また、妻の御下は島津久元の妻となった。  

今給黎久治

 久治の家は島津家の重臣である伊集院忠朗とは別流で、伊集院氏5代・忠国から分かれた家である。日向国福島,薩摩国桜島・市来・出水,大隅国高山の地頭を務めた。
 天正8年(1580年)、阿蘇氏の家臣・中村惟冬の守る肥後国矢崎城,綱田城攻めに従軍。天正14年(1586年)には大友氏攻略のため豊後国諸城を攻めるなど九州各地を転戦した。豊臣秀吉による九州平定後に行われた九州国分で、秋月種実に日向櫛間が与えられると、同地を支配していた久治は、これに抵抗して半年間に渡って櫛間城から退去することを拒んだ。天正19年(1591年)から慶長10年(1605年)まで島津氏の家老として義久,義弘,家久の3代に仕えるが、翌慶長11年(1606年)義久と天草城を巡る意見の相違から家老を辞した。