| TJ02:多治武綱 | 継体天皇 ―(宣化天皇)― 多治比 嶋 ― 丹治武綱 ― 大関高清 | TJ07:大関高清 | ● |


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| 大関高清 | 大関宗増 |
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| 大関氏の系図や江戸時代後期に大関増業が編纂した『創垂可継』などの家伝では、大関氏は武蔵七党の丹党の末裔であり、本姓は丹治姓であるとしている。ただ、戦国期に大田原氏から大関高増が養嗣子として大関氏に入ったために、大関氏の系図を作為して強いて丹治姓としたという指摘もある。それとともに、『那須系図説』や『伊王野系図』を基に大関氏は常陸国の小栗氏より出た平姓との考え方もある。 | 那須氏の家臣。那須資房による那須氏再統一に功があったが、永正15年(1518年)、同僚の大田原資清の才を妬んで主君に讒言し、これを追放して専横を極めた。 天文11年(1542年)、越前国の朝倉氏の支援を受けたともされる大田原資清が帰参し、宗増の嫡男・増次に奇襲を掛け増次は敗死、宗増は資清の長男・大関高増を養嗣子として迎えることを余儀なくされた。 |
| 大関高増 | 大関資増 |
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大田原資清の長男として大永7年(1527年)に生まれたとされる。天文11年(1542年)頃、父の政略で大関宗増の養嗣子となり、家督を継いで白旗城主となった。天文18年(1549年)の喜連川五月女坂の戦いで初陣して戦功を挙げた。天文20年(1551年)、従五位下・右衛門佐に叙任。後に美作守になった。 |
慶長元年(1596年)、兄・大関晴増が死を間近に迎えた際にその嫡子・大関政増が幼少であったことから後継に弟の資増が指名され家督を相続した。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの時には徳川家康の東軍に属し、上杉景勝の抑えとして所領の黒羽が陸奥国の境にあるということを家康に重要視され、榊原康政の家臣の伊奈主水が黒羽城の修造を行った。 |
| 大関晴増 | 大関増業 |
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はじめ白河義親の婿養子に迎えられる。しかし、天正7年(1579年)に佐竹義重が白河に侵攻してくると、義親は降伏して義重の次男・義広に家督を譲らされることとなった。このため、晴増は廃嫡となったものの、実家の大関氏では前年に弟の清増が家督を継承しており、戻るにも戻れなくなっていた。しかしながら白河勢の将として佐竹勢と攻防を繰り広げた晴増の戦いぶりを評価した義重の勧めで佐竹氏の客将に迎えられた。その後は義重に従い、義重が壬生氏の鹿沼城を攻めた際には一番槍の功を挙げて自ら敵を討つなど奮戦している。 |
天明元年(1781年)、伊予国大洲藩主・加藤泰衑の8男として生まれる。寛政10年(1798年)9月1日、大洲藩において600石を与えられる。 |
| 大関増徳 | 大関増裕 |
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天保10年(1839年)9月17日、丹波国篠山藩主で老中の青山忠良の5男として誕生した。安政3年(1856年)4月19日、13代藩主・大関増昭の死去により、末期養子として家督を相続した。同年4月25日、江戸幕府13代将軍・徳川家定に御目見する。安政4年(1857年)12月16日、従五位下・能登守に叙任する。 |
天保8年12月9日(1838年)、西尾忠宝の3男として生まれる。文久元年(1861年)、下野国黒羽藩主・大関増徳の養嗣子となり、10月9日に跡を継いだ。同年11月に14代将軍徳川家茂に御目見して12月に従五位下・肥後守に叙任。 |
| 大関増勤 | |
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嘉永2年1月5日(1849年1月28日)、丹波国山家藩主・谷衛滋の庶子として生まれる。常陸府中藩主・松平頼説の3男・松平頼功(衛滋の実兄)の3男とする説もある。 |