<皇孫系氏族>宣化天皇後裔

TJ02:多治武綱  継体天皇 ―(宣化天皇)― 多治比 嶋 ― 丹治武綱 ― 中山家勝 TJ09:中山家勝


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中山家勝 中山照守
 高麗五郎経家が武蔵国高麗郡加治郷に定着したことから当初は加治氏を名乗った。その13代目の家勝が同郷の中山村に移住したため、以後は中山氏を称した。中山家勝は武蔵七党丹党の一族(加治氏)として武蔵を基盤に活動し、山内上杉家に仕えた。ついで後北条氏の北条氏康に仕え、主君・氏照の元で勇戦し、その武名は関東一円に轟いた。

 江戸幕府旗本寄合。初め父・家範とともに北条氏照に仕えた。天正18年(1590年)、小田原征伐における八王子城の戦いで父は討ち死にしたため、照守は武蔵加治に潜伏していたが、同年8月、父の最期に感銘した徳川家康に弟・信吉とともに召抱えられ、300石を与えられて徳川秀忠の使番に任じられる。
 慶長5年(1600年)、秀忠の軍に従い、上田合戦にて上田七本槍に数えられる働きをするが、軍律違反であり叱責を受け、真田信之お預けとなって上野吾妻郡に閑居するが、翌年に許され本領を安堵される。照守は高麗八条流馬術の使い手であったため、秀忠に馬術を教授し、のちに3代将軍・徳川家光にも手ほどきしている。
 慶長14年(1614年)、大坂の陣では子の直定とともに参戦し、得意の馬術で戦功を挙げて500石を加増された。後に1000石加増され、目付に転じられて寛永3年(1626年)4月に肥後国熊本に巡察として赴く。寛永9年(1632年)に鑓奉行となり、最終的に3500石の大身旗本となる。 寛永11年(1634年)に死去。享年65。家督は、嫡男の直定が継ぐ。墓所は、菩提寺の能仁寺。

中山直守 中山直房
 父・直定の代に武蔵・上総・下総の三国に3000石得て、直守の代に1000石加増された。正保2年(1645年)、先手組弓頭であった父・直定が没し、13歳でその遺跡を継ぐ。小姓組番士,徒頭を歴任し、寛文3年(1663年)に先手組鉄砲組頭に任じられる。天和2年(1682年)、500石を加増される(のちに4000石を知行)。家譜によれば、天和3年(1683年)1月23日より、直守は幕府から盗賊追捕の役(盗賊改)に転じられ、「鬼勘解由」とあだ名されて恐れられたという。また同日、息子の直房は、火付人を召し取る役(のちの火付改)に任ぜられた。その後、直房が直守の遺跡を継ぎ、また勘解由と称したことから、「鬼勘解由」は直房との説もある。貞享元年(1684年)12月3日、直守は兼務していた先手組頭から大目付となり、同年12月26日に従五位下・丹後守に叙任。貞享3年9月(1686年)に大小神祇組を取り締まった。翌貞享4年(1687年)7月2日に没。享年55。    長じて4代将軍・徳川家綱および5代将軍・徳川綱吉に仕える。家譜によれば、綱吉の代、天和3年1月23日(1683年2月23日)より、幕府より火附人を召し取る役(のちの火附改)に任ぜられる。同日、父・直守は幕府から盗賊追捕の役を任ぜられた(のちの盗賊改)。天和3年3月2日(1683年2月23日)、「賊徒多捕らへし」を賞せられて、黄金5枚を賜う。「鬼勘解由」とあだ名され、恐れられた。「鬼勘解由」は直守との説もある。元禄6年5月10日(1693年6月13日)、使番を兼任。同年12月18日、布衣着用を許される。元禄2年(1689年)に本所二ツ目に屋敷を拝領し、吉良邸討ち入り事件のときもそこに住んでいた。火事を装っての討ち入りであったが、鬼勘解由とあだ名された中山の屋敷が近所にあったため野次馬も出なかったとされる。元禄16年(1703年)、従兄弟の黒田直邦が常陸下館に大名として封ぜられたとき、現地にて城引渡し役を勤める。宝永元年8月11日(1704年9月9日)、先手組鉄砲頭に就任し、宝永3年4月29日(1706年6月9日)、没。享年50。
中山信吉 中山信政

 天正18年(1590年)、小田原征伐における八王子城攻防戦で家範は討死するが、戦後、兄・照守とともに徳川家康に召し抱えられ、信吉は小姓役(1500石)として仕えた。父子ともに八條流馬術の名手。
 慶長8年(1603年)、伏見城で刺客を捕まえて家康から褒美を貰う。慶長12年(1607年)11月、家康の11男・頼房が常陸国下妻10万石に配されるに伴い、特に頼房に附属されて家老に任じられ、常陸国真壁郡内に5000石の加増を受けて6500石を知行した。慶長13年(1608年)、父の奮戦した八王子城で武功のあった17騎を与力として預けられ、真壁でさらに3500石を加増された。慶長14年(1609年)11月、頼房の水戸転封により5000石に加増され、合計15000石となる。慶長19年(1614年)、大坂の陣では頼房とともに駿府城の守備についた。元和2年(1616年)3月26日、従五位下備前守に叙任。元和7年(1621年)には2万石に加増される。翌元和8年(1622年)、常陸松岡に居館を構えた。
 伏見城内での盗賊捕縛や駿府城大火時における頼房救出など、信吉の正直な性格や人柄が家康の厚い信任を得ていたものと思料される。また、水戸藩主の後継として光圀を将軍・家光に推挙したと伝えられる。寛永19年(1642年)1月6日、死去。享年65。

 文禄元年(1592年)、水戸徳川家家臣だった父・信吉の嫡子として生まれる。大膳を称し、慶長14年(1609年)、16歳で徳川秀忠に仕え、小姓組に属し500俵を与えられる。大坂の陣には冬・夏ともに参戦した。寛永3年、徳川家光の上洛にも幕臣として供奉した。寛永5年(1628年)11月、父の主君である水戸藩主・徳川頼房に仕え家老となり、寛永11年(1634年)7月22日、従五位下・東市正に叙任。寛永19年(1642年)の父の死で家督を相続した。2月には頼房の子松平頼重が分家を設立した際に、讃岐国高松城を受領するために派遣された。
 男子がなかったため、慶安4年(1651年)に弟の信治に家督を譲って隠居した。延宝5年(1677年)没した。墓所は埼玉県飯能市中山の智観寺。信政の代には、領地が常陸国松岡に移された。 

中山信敬 中山信徴

 明和8年(1771年)、8歳のときに先代・中山政信の臨終の席でその娘を迎え、婿養子となって中山家の家督を相続した。安永8年(1779年)12月16日、備前守に叙任する。その後、年月不詳ながら、備中守に遷任する。文政2年(1819年)、病気(中風)をきっかけに家督を3男の信情に譲って隠居することを命じられ、藩政を退く。一貫斎と号したが、翌年没した。墓所は埼玉県飯能市の智観寺。
 信敬は藩主の子として生まれたため、末子であっても大名家の養子となる資格があったが、2万5千石の陪臣の養子となったことに不満があったと推測される。附家老として藩主の兄を補佐し、藩政を掌握すると中山家の地位を向上させることに尽力した。享和3年(1803年)11月には大田村からかつての松岡に知行替えをした。地位向上運動は藩内にとどまらず、幕府に対しても文化13年(1819年)1月から老中・水野忠成に、八朔五節句の江戸城登城について藩主随伴ではなく単独で登城できるように陳情を始めた。この陳情は中山家だけでは実現できそうもなかったため、同じ附家老の尾張成瀬家や紀州安藤家と連携をとって家格向上に努めた。  

 弘化3年(1846年)4月10日、江戸で生まれる。幼名は弓次郎。文久元年(1861年)1月3日に18歳で早世した兄・信宝の跡を受け、16歳で家督を継いで当主となり、附家老として混乱した水戸藩政を支えた。同年12月16日、従五位下備中守に叙任される。その後、年月日不詳にて、備後守に遷任する。さらに備中守に還任する。
 文久3年(1862年)1月6日、幕府に上洛を命じられた主君の徳川慶篤に供を命じられ、2月16日に慶篤とともに信徴も江戸を出発した。途上、尾張国の宮駅で老中の板倉勝静と水野忠精から、前年8月の生麦事件について損害賠償を要求してきたイギリス軍艦が神奈川へ入港したことを受けて、江戸防衛のため江戸帰府を命じられた。しかし、すでに京の近くであったため、御連枝の松平頼縄と松平頼徳らを江戸に戻しただけで、慶篤と信徴は3月5日に入京した。上洛した慶篤は22日に、上洛中の将軍に代わって関東の守備を命じられ、慶篤と信徴は4月11日に江戸に戻った。水戸藩が諸生党に牛耳られて天狗党が一掃され、さらに鎮派も弾圧の対象となった頃、朝廷は慶応2年6月13日に信徴の上洛を命じた。諸生党の妨害を受けたものの、7月15日には江戸を出発して末日に京都本圀寺に到着した。8月1日に二条斉敬の下問を受けて藩政の沈静化を諭され、5日に大阪で老中・稲葉正邦と面会したが京都での待機となった。15日に京都所司代に呼び出され、老中・板倉勝清より諸生派の処罰を命じる朝廷の命令を受領した。信徴は、前回の事例から幕府の武力がなければ処罰はできないと答えたが、長州征討中のため派兵はできないながら幕府の名のもとに藩政改革に尽くすことになった。信徴は20日に京都を出発、9月6日に江戸着、江戸で幕閣と調整を続けたが、国元の諸生党は幕命や藩命を軽んじて服すことがなかった。
 慶応4年(1868年)1月24日、新政府の特旨によって常陸松岡藩が立藩し、その初代藩主として独立大名となった。翌年6月22日には版籍奉還により藩知事となり、明治4年(1871年)の廃藩置県で免官となった。
 維新後は、日光東照宮の宮司、氷川神社大宮司などを務めた。明治17年(1884年)7月8日、長男の信実は男爵を授爵された。大正6年(1917年)1月29日、72歳で死去した。