百済系渡来氏族

KDR2:百済王朝2  百済王朝2 ― 津 王牛 TW01:津 王牛

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津 王牛 菅野真道

 名は麻呂とも記される。百済王辰斯王の子である辰孫王の後裔を称する王辰爾の弟。津連の祖。
 『続日本紀』延暦9年条の仁貞の上表文に百済の貴須王の孫の辰孫王が応神朝に渡来し、その曾孫の午定君の3子のひとりであり、この時から葛井,船,津史の3氏に分かれたというが、これらの伝承は、応神朝に渡来したとされる西文氏の王仁の伝説を模倣した創作であり、実際は王辰爾の代に渡来した中国南朝系の百済人である。
 『日本書紀』によると、王辰爾は船賦を数え録したことを称えられ、船史の氏姓を賜り、王辰爾の甥である胆津が白猪史、王辰爾の弟の王牛が津史の氏姓を賜った。後にそれぞれ連を賜り、その後、船史は宮原宿禰、津史が菅野朝臣(菅野氏)、白猪史が葛井連の氏姓を賜った。

 光仁朝末の宝亀9年(778年)少内記に任じられ、桓武朝初頭の延暦2年(783年)外従五位下に叙せられる。この間、右衛士少/大尉,左兵衛佐といった武官や近江少目,同大掾,摂津介(摂津守)と畿内の地方官を歴任した。延暦4年(785年)安殿親王(のち平城天皇)の立太子にあたって、内位の従五位下に叙せられ、東宮学士に任ぜられる。延暦9年(790年)連から朝臣への改姓を上表し、居住地に因んで菅野朝臣の姓を賜与されている。
 桓武天皇の信任が厚く、東宮学士の傍ら左大弁,左兵衛督,左衛士督と文武の要職を歴任する一方、造宮亮として平安京への遷都事業にも深く関与した。またこの間も順調に昇進し、延暦24年(805年)には参議として公卿に列した。延暦24年(805年)には桓武天皇の前で藤原緒嗣との間でいわゆる「徳政相論」を行い、農民の負担軽減のために軍事,造作を停止すべきとの緒嗣の主張に強く反対するが、天皇は緒嗣の主張を採択し、計画中であった蝦夷征伐と平安宮造宮の中止、および造宮職の廃止と木工寮への統合が決まった。
 大同元年(806年)平城天皇の即位に際して正四位上に昇叙される。翌大同2年(807年)観察使制度の設立に伴い山陰道観察使、次いで大同4年(809年)従三位・東海道観察使に叙任。嵯峨朝の弘仁2年(811年)参議を致仕。弘仁5年(814年)6月29日薨去。享年74。 
 真道は藤原継縄,秋篠安人と『続日本紀』の編纂を行い、延暦16年(797年)に全40巻を完成させた。また、未完成に終わったが、桓武天皇の命により藤原内麻呂と共に格式の編纂を進めていたとされる。 

菅野永峰 津 主治麻呂
 淳和朝末の天長8年(831年)従五位下に叙爵する。承和4年(837年)、かつて父の菅野真道が桓武天皇に奉るために建立した山城国愛宕郡八坂郷にある八坂東院と呼ばれていた道場一院について、永岑は院の周囲を寺地と定め別院として僧侶1名を置き長く桓武天皇の護持に当たらせることを望み、許されている。主殿頭と斎院長官を務める一方、承和6年(839年)豊前守、承和7年(840年)伊予介と仁明朝半ばには西国の地方官も兼ねた。承和8年(841年)従五位上に至る。   元正朝の養老6年(722年)5月に遣新羅使に任ぜられる。この時の正七位下という位階は、歴代の遣新羅使の正使の中で最低であり、よって大使の呼称は使用されていない。元明上皇の崩御を告げる役目があったとされている。5月末に元正天皇に拝謁して渡海し、12月下旬に帰国を果たしている。 
津 真麻呂 津 秋主

 聖武朝の天平17年(745年)2月21日付治部省移に「正七位下行少録津史真麻呂」と署名している。孝謙朝の天平勝宝4年(753年)4月の大仏開眼会では雅楽大允として唐中楽頭を奉仕した。
 天平宝字2年(758年)8月の淳仁天皇即位後まもなく、秋主ら一族34人の言上により、史姓から連姓に改姓する。この時に真麻呂も連姓を賜ったものと推定される。
 天平宝字8年(764年)藤原仲麻呂の乱終結後に行われた叙位にて外従五位下に叙せられる。天平神護3年(767年)3月に摂津大進に任ぜられると、同年11月に新羅使ら187人と使節を導き送る者39人が対馬に到着したことから、12月に員外右中弁の大伴伯麻呂とともに、大宰府に派遣されて新羅使に対して入朝した理由を尋ねた。神護景雲3年(769年) 、従五位下(内位)・肥前守に叙任されている。
 光仁朝の宝亀2年(771年)肥前守に土師位が任ぜられており、その前に真麻呂は国司の任を離れたと考えられる。

 右兵衛府少直を経て、聖武朝末の天平20年(748年)外従五位下に叙せられる。天平宝字2年(758年)8月の淳仁天皇即位後まもなく、秋主ら一族34人が以下を言上し史姓から連姓に改姓する。同年11月には内位の従五位下に叙せられた。
 船氏,葛井氏,津氏は同一の祖先であるところ三氏に分かれた。その内二氏は連姓を与えられているが、秋主らのみ未だ改姓の恩恵に浴していない。そこで史の字を改めたい。
 天平宝字7年(763年)尾張介に任ぜられるが、翌天平宝字8年(764年)9月に発生した藤原仲麻呂の乱では孝謙上皇側に付いたらしく、同月中に従五位上次いで正五位下と二階昇進し、10月には尾張守に昇格した。天平神護元年(765年)、乱での功労により勲六等の叙勲を受け、天平神護2年(766年)従四位下に至った。
 光仁朝の宝亀4年(773年)5月造西大寺次官に任ぜられるが、同年閏11月15日卒去。

菅野庭主 菅野高年

 従五位上まで昇進した後、平城朝の大同3年(808年)木工頭に任ぜられる。嵯峨朝に入ると、大同4年(809年)正五位下、大同5年(810年)4月には藤原真夏,紀田上ら平城上皇派の官人らとともに叙位を受けて正五位上と続けて昇進するが、同年9月に薬子の変が発生すると安房権守に左遷された。

 

 承和10年(843年)6月に古事を知る者として内史局(図書寮)において『日本書紀』の講読を開始し、ほぼ1年間かけて翌承和11年(844年)6月に完了させた。
 承和12年(845年)従五位下に叙爵する。承和13年(846年)から翌承和14年(847年)にかけて造酒正,図書頭,内匠頭と短期間に京職を転々とする。嘉祥2年(849年)因幡介に任ぜられ地方官に転じた。

菅野弟門 菅野良松

 承和元年(834年)に兄弟と思しき中科継門が中科宿禰から菅野朝臣に改姓しており、この時に弟門も改姓したと思われる。仁寿4年(854年)外従五位下に叙せられ、斉衡2年(855年)尾張介に任ぜられる。
 清和朝に入ると太政大臣・藤原良房の家令を務める一方で、貞観元年(859年)内位の従五位下、貞観5年(863年)従五位上と昇進する。貞観11年(869年)刑部大輔に遷るが、翌貞観12年(870年)因幡権守として地方官に転じている。 

 左大史を経て、清和朝中期の貞観11年(869年)外従五位下・加賀介に叙任されるが、翌貞観12年(870年)備中介に遷る。その後、内位の従五位下に叙せられ、陽成朝の元慶6年(882年)但馬介に任ぜられるが、就任早々、「但馬国の出挙に用いる正税の雑稲は74万束であるが、年月を経て減少し、現在確認すると不足した状態になっている。ついては、隣国の穀を譲り受けて不足分に充当したい」旨、言上する。これは許されて、丹後国の不動穀4000斛、因幡国の不動穀6000斛が但馬国に譲られた。
菅野高松 菅野宗範

 貞観元年(859年)左大史の官職にあったが、清和天皇の大嘗会にて大内記・高階菅根とともに装束司判官を務め、大嘗会終了に際して揃って外従五位下に叙せられた。
 貞観3年(861年)正月に紀伊介に任ぜられるが、2月に越中介に転じる。貞観9年(867年)内位の従五位下に叙せられるとともに紀伊介に任ぜられ、再び地方官を務めた。
 貞観19年(877年)陽成天皇の即位に伴う叙位にて従五位上に昇叙され、元慶8年(884年)には玄蕃頭に任ぜられている。 

 左衛門少尉を経て、貞観2年(860年)従五位下に叙爵する。貞観6年(864年)駿河介に任ぜられるが、翌貞観7年(865年)正月に豊後介、4月に薩摩守と九州地方の地方官に遷る。その後も、貞観12年(870年)正月に安房守、7月に河内介と、清和朝前半に地方官を歴任した。