中国(後漢王朝)渡来系

YA02:東漢爾波伎  東漢 掬 ― 東漢爾波伎 ― 大蔵広隅 YA05:大蔵広隅

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大蔵広隅 大蔵春実
 天武天皇元年(672年)に壬申の乱が勃発した際、広隅は近江国大津京にいたらしい。大津京にいた高市皇子は、父の大海人皇子の挙兵を知って京を脱出し、6月25日に鹿深を越えて積殖山口で大海人皇子の一行に合流した。このとき高市皇子に従っていたのが、広隅のほか、民大火,赤染徳足,坂上国麻呂,古市黒麻呂,竹田大徳,胆香瓦安倍であった。鹿深は近江国甲賀郡のあたりである。積殖山口の推定地は後の伊賀国阿拝郡柘植郷で、当時は伊勢国に属した。広隅のその後の行動については記録がない。

 天慶2年(939年)、藤原純友の乱鎮圧のため大蔵春実は追捕山陽南海両道凶賊使の主典となり追捕山陽南海両道凶賊使長官の小野好古らとともに西国に派遣される。天慶4年(941年)5月に博多津において藤原純友軍を撃退。その功績により従五位下・対馬守兼大宰大監に叙任され、筑前・豊前・肥前・壱岐・対馬の管領職となる。九州に下向した春実は、太宰府に近い筑前御笠郡基山に城を構え、太宰府の武官として北部九州の守備にあたった。のちに山麓の原田に居館をつくり、地名をもって原田氏を名乗り土着したという。これが原田氏の始まりといわれる。
 春実が九州に入って後、大蔵一族は原田氏を嫡流として秋月・江上・田尻・三原・高橋などの諸家を生じた。そのなかでも、とくに原田・秋月・高橋の3氏が大蔵氏三大豪族としてあげられる。
 なお、天徳4年(960年)、平将門の残党が平安京に入京するとの噂が発生した際、蔵人所の命により、追捕使・大宰府の次官であった源経基の子・満仲と共に武士団を率い都を警護した。これは、官職に因らず武士団を用いた最初の例とされる。

原田種材 波多江種貞

 大宰少監を務めた後、寛弘4年(1007年)に子息・満高が大隅守・菅野重忠を射殺する。種材は重忠の遺族(後家)からこの殺人事件の犯人として訴えられ、寛弘5年(1008年)5月の陣定で対応が協議される。11月に入って、種材は左衛門府の射場に身柄を拘束される。結局、数ヶ月の拘留を経て、翌寛弘6年(1009年)7月に放免された。この殺人事件の原因は明らかでないが、大隅国内の権益に関して、同国の有力者であった種材と、受領国司であった重忠との間で対立があったとする見方がある。
 のち、大宰大監を務める。寛仁3年(1019年)4月の刀伊の入寇において、種材は既に70歳を超す高齢であったが、大宰権帥・藤原隆家らと共に刀伊に対して応戦する。さらに、刀伊が撤退しようとした際、追撃のための兵船の整備を待たずに単独で追撃を行う旨を筑前守兼大宰少弐・源道済に訴えた。この訴えは認められるも、刀伊の撤退が迅速であったために戦闘には至らなかったが、種材の忠節は深く褒賞すべき者として大宰府から報告が行われた。7月になって種材は入寇での功労により壱岐守に任じられている。

 大蔵春実の3男・美気種季を祖とする美気家は、5代目となる美気種房の代の天永2年(1111年)に筑前国波多江庄を領した。7代目である美気種名の代に、原田種直の弟・敦種が養嗣子となり、後に種貞に改名し、波多江を称し、波多江種貞が波多江氏の祖となった。
 治承・寿永の乱では平家方に属し、種貞は葦屋浦の戦いで下河辺行平により討ち取られた。2代・種遠は壇ノ浦の戦いの後に鎌倉に送られたが、後に赦免され波多江庄に戻った。
 南北朝時代には主に南朝に与した記録が残されている。戦国時代には原田氏の有力家臣として行動を共にし、豊臣秀吉による九州平定後は朝鮮出兵で渡海した中にも名が見え、その中には最終的に帰農するものも現れたという。現在でも糸島市波多江として地名が残されている。