| AK01:朝倉宗高 | 日下部表米 ― 朝倉宗高 ― 朝倉教景 | AK02:朝倉教景 |

| リンク | 【AK03】 |
| 朝倉経景 | 朝倉景職 |
|---|---|
|
長禄合戦や応仁の乱で兄・孝景を補佐して戦う。応仁2年(1468年)閏10月14日、京都に甥の氏景と配下の兵を残し、孝景,光玖,景冬の兄弟揃って越前国へ下る。文明3年(1471年)、孝景が東軍に寝返り、越前平定に乗り出すとこれに従う。孝景死後は氏景を補佐し、越前統一を実現する。 |
朝倉貞景の娘・北殿を妻に迎えたことで、朝倉同名衆の中でも高い地位を得た。父・経景の死後、その居城の安居城を継承する。 |
|
朝倉景隆 |
安居景健 |
|
母は朝倉貞景の長女・北殿。朝倉義景の従兄弟にあたり、一族内での序列は高かった。 |
元亀元年(1570年)頃、父と兄らが相次いで死去したため跡を継ぐ。同年、織田信長が越前に侵攻して来るとこれを防戦し、直後の姉川の戦いに総大将として参陣した。同年9月20日の下坂本の合戦で織田家臣の森可成と信長の弟・織田信治ら750余人を討つという戦果を挙げている。 |
|
鳥羽将景 |
鳥羽景忠 |
|
7代当主となった甥の孝景とは反目し、長禄2年(1458年)に始まった守護斯波義敏と守護代・甲斐常治との合戦(長禄合戦)では、守護側に与して孝景と対立した。翌長禄3年(1459年)8月11日、越前足羽郡和田荘の合戦で堀江利真と共に孝景らに討ち取られた。子・景正も和田での合戦で討ち取られたが、将景の曾孫である朝倉景富が鳥羽家を継いでいる。 |
永禄11年(1568年)5月17日、足利義昭が朝倉義景の館へ御成りをした際、伺候した朝倉同名衆19名のうち、景忠の父・朝倉景富は上位から7番目の家柄であった。織田氏によって朝倉宗家が滅亡すると、景忠は一向一揆に与し、天正3年(1575年)8月の織田信長の越前国再侵攻の際は、居城の鳥羽城に600の兵で立て篭もったが、柴田勝家と丹羽長秀の軍勢により落城、景忠軍は壊滅した。しかし、景忠自身は生き延びて抵抗を続けたらしい。 |