清和源氏

G105:源 頼光  源 経基 ― 源 頼光 ― 源 頼範 G152:源 頼範

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源 頼範 源 頼家 源 頼弘

 京における中級官人として活動し、寛弘8年(1011年)には三条天皇の即位に伴う斎宮御禊に際し源頼国と共にその前駆を務めた。長和3年(1014年)、非蔵人として昇殿を許され、同5年(1016年)には三条院の院蔵人となったが、以後史料上から姿を消すという。
 なお、『尊卑分脈』による子の記載は兄頼光,頼平のものとの間で錯綜がみられる。また、長子とされる頼綱は甥頼国の五男であった頼綱(多田頼綱)と同一人物であると仮定し、多田庄は満仲から頼範に継承されその子頼綱に相続されたとする説が提示されたことがある。

 長元8年(1035年)に蔵人に任ぜられ、兄・頼国と同じく藤原頼通に近しく仕える一方、受領を歴任した。特に歌人としての活動がよく知られており、甥・頼実と共に中級貴族の歌人集団・和歌六人党の一人に数えられ、長暦2年(1038年)及び長久2年(1041年)の『源大納言家歌合』や『橘義清歌合』『関白殿蔵人所歌合』『左京大夫八条山荘障子絵合』などに出詠したほか、自身でも越中守在任時に『頼家名所合』を催している。また延久4年(1072年)以前に筑前守を務めている。
 陸奥守在任時の橘為仲から往年の和歌六人党のうち存命であるのは自分と頼家だけになってしまったという内容の和歌が贈られた際に為仲は六人党の内でないといって怒ったという説話が『袋草紙』『続古事談』『十訓抄』にある。その詠歌は『後拾遺和歌集』以下の勅撰和歌集に9首が入集している。

 甥頼国の長男頼弘と同名であるが、同じく『分脈』の記述では子に「為綱」とあることから、上記頼綱の子「範弘(戸島蔵人)」と訛伝混同している可能性がある。