清和源氏

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源 頼綱 源 明国

 母は尾張守藤原中清の娘。頼光の弟・頼範の子とする説が提示されたことがある。多田頼綱とも呼ばれる。
 兄たちに早世や配流が相次いだことにより、摂津源氏の嫡流を継承した。頼綱も父祖と同じく摂関家と緊密な関係を築き、関白・藤原師実に家司として仕えた。そして、蔵人,左衛門尉,検非違使などを経て、下野守,三河守を歴任し従四位下に昇った。また、承暦3年(1079年)の延暦寺の強訴の際には、京における軍事貴族として源仲宗(信濃源氏)や平正衡(伊勢平氏)などと共に都の防衛にあたっている。
 和歌に秀で、多くの歌合に招かれて歌を詠み、大江匡房や能因,源俊頼などの著名歌人らと交流があったことが知られ、その詠歌は『後拾遺集』以下の勅撰和歌集に計8首入集している。また、頼綱の時代に本拠地・多田庄を摂関家に寄進したとされており、曽祖父・満仲以来の由緒ある名乗りである「多田」を家号とし、「多田歌人」と呼ばれた。
 宮廷との結びつきを深め、頼子を白河天皇の後宮に入れる一方、また別の一女を関白・藤原師通の側室としたほか、さらに別の女子を大納言・源能俊室や武蔵守・藤原行実室、土佐守・藤原盛実室(盛子)などともしている。出家後は参河入道と号し、翌承徳元年(1097年)に卒去した。

 名は行光。「多田」を号したことから多田明国とも記される。
父・頼綱より多田荘を継承し、父祖に続いて摂関家に近侍した。白河院蔵人、堀河天皇の六位蔵人を務めた後、検非違使,左衛門尉を経て永長元年(1096年)11月に従五位下に叙され、翌12月には藤原師通家の侍所別当に任じられる。その後、長治2年(1105年)に京中において郎党を殺害したことにより弓庭に拘禁された。
 天永2年(1111年)正月の除目で下野守に任じられるが、同年主君である藤原忠実の命令で美濃の荘園に下向した際、道中で無礼者を咎めたことから私闘に発展し、信濃守・橘広房,源為義の郎党など3人を殺害するに至ったことが原因で佐渡へ流罪となった。佐渡に流された後でも武威を振るって国司の任務を妨げ、大治3年(1128年)佐渡守・藤原親賢は、明国を他国に移すよう朝廷に請うている。翌年(1129年)明国は召還されたが、その後の彼の動向は不明である。

源 頼子 源 盛子

 平安時代後期の女官。白河天皇の後宮に奉仕し、その寵愛を受けて官子内親王(清和院斎院)を産んだ。
 永久3年(1115年)8月16日付の『源頼子家地相博券』という古文書によれば、頼子は当時左京七条坊門小路南・室町小路東に4戸主分の地所を所有していたらしい。長承元年(1132年)3月、官子内親王の邸宅清和院内に仏堂を建立供養した。

 平安時代後期の女官。掌侍として堀河天皇,鳥羽天皇,崇徳天皇に仕え、三河内侍(または参河掌侍)と呼ばれた。寛治5年(1091年)10月25日には掌侍として堀河天皇の御使を奉仕した。藤原北家勧修寺流の一族である土佐守藤原盛実の妻となり、藤原顕憲,藤原伊通妾,藤原忠実妾らの母となる。
 その後夫盛実と死別した後も掌侍に在任していたが、大治5年(1130年)11月に藤原伊通の妾になった娘と死別して以後、出家した。久安2年(1146年)病床につき、翌年9月11日に没した。

源 頼憲 源 経光

 兄・頼盛と多田荘の相続を巡って対立し、頼憲も「多田」を号した。摂関家の内部で藤原忠通・頼長兄弟の対立が起こると、頼盛が忠通に従属したのに対して、頼憲は頼長に仕えその勾当となる。久安3年(1147年)には頼長の推挙により内昇殿を許されており、仁平元年(1151年)には頼長の命により、同じく頼長の家人である源為義の摂津の旅亭を焼却したこともあった。
 元元年の保元の乱に際しては頼長の指揮の下崇徳上皇方として参陣し、為義や平忠正らとともにその主力を形成する。しかし上皇方が敗北するとともに捕虜となり、嫡男・盛綱とともに斬首された。

 久安2年(1146年)3月9日の夜半に経光の従兄妹にあたる官子内親王(白河天皇第五皇女)の邸宅が落雷により焼失した際、兵仗を手に執り轟く雷を追い払おうとしたところ邸に雷が落ちて震死(感電死)したとの記事が『本朝世紀』にみえている。事件の詳細については不明であるが、同書翌日条には経光が近江国建部大社の社務を執行した際に非法を行ったことから神罰が下ったとの噂が流布したとある。また、事件当日は経光の妻も側にあったが彼女は奇跡的に無事であり、官子内親王も無事で近隣の藤原定信宅に避難したという。
 なお、『本朝世紀』にはこの経光の所持していた兵仗に対し「俗に之奈木奈多と号す」との記述があり、薙刀の初見とされている。

多田行綱 多田基綱

 当初、藤原忠通の下で侍所の勾当として摂関家に近侍したが、後に後白河院の北面武士に加えられる。そして、安元3年(1177年)の鹿ケ谷の陰謀では院近臣の藤原成親らから反平氏の大将を望まれるが、平氏の強勢と院近臣の醜態から計画の無謀さを悟り平清盛にこれを密告、関係者多数が処罰された。事件後、『尊卑分脈』の記述によれば行綱自身も陰謀に加担したとして安芸国に流刑となったとされるが、その真偽は不明である。ただし、この密告の史実については疑わしいとする見方もある。
 治承寿永の乱では、鹿ヶ谷の陰謀以降平氏に属していたとされるが木曾義仲の快進撃と呼応する形で寿永2年(1183年)7月22日に摂津・河内の両国で挙兵し反旗を翻した。そして行綱の軍勢は摂津河尻で平氏の船を押さえるなどして都に上る物流を遮断し、入京を目前に控えた義仲や安田義定,足利義清,源行家らと共に京都包囲網の一翼として平氏の都落ちを促したが、これには摂津・河内両国の衆民が悉く協力したとの記述が『玉葉』にみえる。
 続く24日には、摂津国内の武士・太田頼助が行綱の下知により河尻で都に上る粮米などを奪ったほか人家も焼却した。これらの行動は平氏に大きな打撃となり都落ちを決定付ける要因の一つとなる。そして翌25日に平氏が西国に向けて都落ちすると、26日には朝廷が平親宗を遣わし行綱に安徳天皇と三種の神器の安全のために平氏を追討しないよう命じる御教書を下した。
 義仲の敗亡後は源頼朝方につき、寿永3年(1184年)2月の一ノ谷の戦いでは源義経軍の一翼・多田源氏の棟梁として活躍する。京方の記録である『玉葉』によれば一ノ谷の戦いにおいて、行綱は山方から攻め、真先に山手を陥落させたとある。しかし鎌倉幕府の公式記録である『吾妻鏡』には行綱の活躍がみえておらず、これは後に行綱が頼朝から追放されたこととの関係が指摘されている。なお、近年では古文書の検証から行綱が一ノ谷の戦い以前に初代摂津国惣追捕使に補任されており、有事の際には摂津国内の武士に動員をかける有力な立場にあったとする研究が提示されている。
 平氏滅亡後の元暦2年(1185年)6月、頼朝に多田荘の所領を没収され行綱自身も追放処分となった。この原因には一ノ谷の戦い以降、義経と深く手を結んでいたであろうことや、清和源氏の嫡流を自認した頼朝が先祖・源満仲以来の本拠地である多田荘を欲したことなどがあったと考えられている。追放から5ヶ月後の文治元年(1185年)11月、義経の一党が都落ちすると豊島冠者らと共にこれを摂津河尻で迎え撃って、この行動で失った多田荘を回復しようとしたと考えられているが、その後も処分は解かれなかった。以後の消息は不明。

 多田源氏の惣領であった父行綱は、源頼朝の粛清により累代の所領多田荘を奪われ没落しており、以降の行綱及びその子らの動向は不明となっているが、承久3年(1221年)に後鳥羽上皇が倒幕の兵を挙げると基綱は上皇方として参加し、その敗北とともに討ち取られ梟首されたとの記録が残る。上皇方への参加は多田荘の奪回を図ったものであろうと考えられている。
能瀬高頼 能瀬資国

 摂津国能勢庄の開発領主。多田源氏の一族であるが、一族の他の武士達のように京都の情勢に関心を持たず、領地の開発に邁進した人物。多田源氏の嫡流が本拠地の多田から勢力を拡大していないのに対して、彼の時代にすでに、現在の能勢町および豊能町に勢力を拡大していた。それが後の多田氏と能勢氏の勢力の差につながったことから、能勢氏の最大の功労者といえる。
 治承寿永の乱においては、『平家物語』に兄の知実と共にその名が挙がっており、『玉葉』の記述によると、治承4年(1180年)11月23日に福原にて「人宅」に火を放ち東国に向けて逐電したとあることから、高頼も当初は他の摂津源氏と同様平家に服属していたものと思われる。そして12月1日、反平家の狼煙が上がる近江国において近江源氏の軍勢と合流し挙兵を企てるも、清盛による討伐の命を受けて近江に攻め込んできた平家の家人・平田家継(平家継)によって討たれ、仲間及び郎党と合わせて16人が斬首、2人が捕縛されたとある。

 治承寿永の乱の後に没落した多田源氏の一族であったが、父の開発した摂津国能勢郡の所領を継承しており、鎌倉期に入ってからも中央官人として蔵人や大学助、豊後守などを務め正五位下に至った。能勢氏の先祖にあたる人物であるが、鎌倉幕府の御家人となっていたかは不明で、承久の乱の際の動向も不明である。
 多くの子女があり、息子たちも中央の官人として土御門院蔵人などを務めたとされる。また、『尊卑分脈』の記述によると娘の一人は平信範の室となり信仲なる子を儲けたとされるが、同平氏系図では確認出来ず年代的な整合性においても疑問である(別の一女の夫・高階光兼の子に信仲の名がみえる)。