永禄3年(1560年)、桶狭間の戦いに父と今川側で参戦する。 永禄11年(1568年)、遠州への侵攻を画策する徳川家康に加担した娘婿・菅沼忠久から今川離反の誘いを受け承諾。これに近藤康用も加わった3人が井伊谷三人衆と呼ばれることとなる。 その家康による遠州制圧戦は同11年末から行われ、徳川軍は遠州で越年。曳馬城攻略を最優先としていたため、浜名湖沿岸の諸城攻略が後回しとなっていた。 同12年(1569年)、家康の下命を受けて堀江城を攻めた。だが、守将・大沢基胤率いる城兵は意気盛んで、なかなか抜けない。そればかりか、城方による反撃を許し、手痛い損害を少なからず受けた。 この時、近藤康用の子登助(近藤秀用)と競い城門にたどり着いた三郎大夫重時は、城方の攻撃を受けて命を落とした。一説に42歳と伝える。子の重好は、井伊直政に付けられた。
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父・重時が堀江城攻めにて戦死すると家督を継いだ。 元亀3年(1572年)に甲斐武田氏が遠江国へ侵攻した際に、信濃国から南下する別働隊の山県昌景によって三河国八名郡にあった居城・柿本城を攻められると、叔父・出雲守が守備する遠江井伊谷の小屋山城へ退く。しかし、ここも山県勢に陥落させられると徳川氏の本拠であった浜松城に退いた。 その後、徳川家臣の井伊直政が旧領を回復すると近藤秀用,菅沼忠久と同様に、井伊勢に付けられる。天正12年(1584年)、小牧長久手の戦いでは、一番槍を入れた直政の眼前で槍下の高名を挙げた。慶長7年(1602年)には、井伊氏の居城となる彦根城普請に勤しんだ。 井伊直政が死去し、少年だった直継が彦根藩を継ぐと、木俣守勝とともに家老として政務を行うが、慶長10年(1605年)には彦根藩の家臣の中から、重好父子が不正を行っているとする告発条が出された。訴えは家康の下にも届けられた。家康は井伊家中の混乱を鎮めるために重好には嫡子・重辰に譲らせて隠居させた上で所領のある上野国に帰らせた。家康は、争いに敗れた格好になっていた重好を穏便な形で彦根藩から追放することで混乱を収めたのである。 その後、閉居生活を送っていたが、元和4年(1618年)、徳川秀忠により水戸付きを命ぜられると、孫の長松丸(のちの鈴木重政)を伴って赴任、知行5千石を給され、水戸の家老となる。 寛永12年(1635年)、水戸にて死去した。なお、子の重辰は寛永11年(1634年)に急死したため、跡目は重辰の子である重政が継いだ。
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