<皇孫系氏族>桓武天皇後裔

K312:桓武天皇  良岑安世 YM01:良岑安世

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YM02・YM04

良峰安世 良峰木連

 生母(百済永継)の身分が低いために親王宣下を受けられずに成長した。延暦21年12月(803年1月)になると、良岑朝臣姓を賜与されて臣籍降下する。
 平城朝において衛士大尉・右近衛将監を歴任し、大同4年(809年)嵯峨天皇の即位後に、従五位下・右近衛少将に叙任される。武芸に優れたことから武官を歴任する一方で、大同5年(810年)権右少弁次いで左少弁と急速に昇進し、弘仁7年(816年)には32歳で、安世と同年齢で同じく天皇の側近であった藤原三守と共に参議に任ぜられ公卿に列した。弘仁12年(821年)従三位・中納言。嵯峨朝では『日本後紀』『内裏式』の編纂に参画したほか、『経国集』の編纂を主宰している。
 弘仁14年(823年)淳和天皇の即位に伴って正三位・右近衛大将に叙任し、皇太子・正良親王(のち仁明天皇)の春宮大夫も兼ねる。天長元年(824年)守・介の任期を4年から6年に延長したほか、諸公卿の提言を入れて国司に関する新たな制度が定められているが、安世の提言が採用されている。
 天長5年(828年)大納言に至るが、天長7年(830年)7月6日薨去。享年46。最終官位は大納言正三位右近衛大将。没後、従二位が追贈され、嵯峨上皇はその死を悼んで挽歌2篇を詠んだという。 
 若い頃から狩猟を好んで、騎射を能くした。一方で書物の読解も得意とし、始めて孝経を読んだ際、儒教の教えここに極まると嘆息したという。
 漢詩に優れ、作品が『凌雲集』に2首,『文華秀麗集』に4首,『経国集』に9首が入集している。また、空海との親交でも知られ『性霊集』には安世に贈られた詩が多数収められている。 

 始め大学助に任官し、天長7年(830年)に父・安世が没したことから服喪のために辞職するが、翌天長8年(831年)従五位下・下野介に叙任される。下野介の任期を終えて帰京後、式部少輔を経て、承和3年(836年)従五位上・陸奥守に叙任。任期中に鎮守将軍・匝瑳末守と共に、民衆の鎮撫と蝦夷対策を目的に承和6年(839年)に1000名、承和7年(840年)に2000名の援兵を動員することを上奏し許されている。またこの間、承和4年(837年)右衛門佐を兼ね、承和5年(838年)正五位下に叙せられている。
 承和8年(841年)左中弁に転任し、承和10年(843年)文室宮田麻呂に謀反の疑いがかけられた際には、宮田麻呂の邸宅の捜索に当っている。承和11年(844年)従四位下・越前守に叙任されるが、任期中の嘉祥2年(849年)6月28日卒去。享年46。最終官位は越前守従四位下。
 身のこなしが淑やかで優雅であり、声望が高かった。良家の子弟であることを自負し、若い頃より功名を立てることを欲して、好んで変わった施策を行った。地方官を勤めていた際、諸神戸に対して、旧例に拠らず非常に詳細な部分まで見逃さないよう厳しく統制したが、同僚は反対して木連から隔たり承知しなかった。ついにこの失策により木連は咎めを受け、悔い改めたものの、治績はあげられなかったという。

良峰経世 良峰宗貞(遍昭)

 天安2年(858年)従五位下・越前介に叙任されるが、同年の清和天皇の即位に伴って10月に少納言に転じ侍従を兼ねる。貞観2年(860年)従五位上。貞観6年(864年)正月に延暦寺座主・円仁が卒去した際に法印大和尚位を贈るために、2月には安恵を次の座主に任命するために、朝廷から延暦寺へ派遣される。貞観7年(865年)薬師寺の僧侶・壱演を権僧正とするために、参議・大江音人と共に西寺に派遣され宣制を行う。貞観8年(866年)には応天門の変に伴う応天門の失火に関して報告を行うために、中納言・源融と共に田邑山陵(文徳天皇陵)に派遣されている。
 貞観9年(867年)正五位下・陸奥守に叙任されると、のち上野権介・丹波守と、清和朝後半は地方官を歴任した。貞観17年(875年)5月19日卒去。

  花山僧正とも号す。六歌仙および三十六歌仙の一人。
 仁明天皇の蔵人から、承和12年(845年)従五位下・左兵衛佐、承和13年(846年)左近衛少将兼備前介を経て、嘉祥2年(849年)に蔵人頭に任ぜられる。嘉祥3年(850年)正月に従五位上に昇叙されるが、同年3月に寵遇を受けた仁明天皇の崩御により出家する。最終官位は左近衛少将従五位上。
 円仁・円珍に師事。花山の元慶寺を建立し、貞観11年(869年)紫野の雲林院の別当を兼ねた。仁和元年(885年)に僧正となり、花山僧正と呼ばれるようになる。同年12月18日に内裏の仁寿殿において、光孝天皇主催による遍昭の70歳の賀が行われていることから、光孝天皇との和歌における師弟関係が推定されている。
 寛平2年(890年)1月19日卒去。享年75。京都市山科区北花山中道町に墓がある。
 遍昭の歌風は出家前と出家後で変化しており、出家後は紀貫之が評したように物事を知的にとらえ客観的に描き出す歌を多く作ったが、出家前には情感あふれる歌も詠んでいる。
 桓武天皇の孫という高貴な生まれであるにもかかわらず、出家して天台宗の僧侶となり僧正の職にまで昇ったこと、また、歌僧の先駆の一人であることなど、遍昭は説話の主人公として恰好の性格を備えた人物であった。在俗時代の色好みの逸話や、出家に際しその意志を妻にも告げなかった話は『大和物語』をはじめ、『今昔物語集』『宝物集』『十訓抄』などに見え、霊験あらたかな僧であった話も『今昔物語集』『続本朝往生伝』に記されている。

素性

 三十六歌仙の一人。遍照が在俗の際の子供で、兄の由性と共に出家させられたようである。素性は父の遍照と共に宮廷に近い僧侶として和歌の道で活躍した。はじめ宮廷に出仕し、殿上人に進んだが、早くに出家した。仁明天皇の皇子常康親王が出家して雲林院を御所とした際、遍照・素性親子は出入りを許可されていた。親王薨去後は、遍照が雲林院の管理を任され、遍照入寂後も素性は雲林院に住まい、同院は和歌・漢詩の会の催しの場として知られた。後に、大和の良因院に移った。宇多天皇の歌合にしばしば招かれ歌を詠んでいる。
 古今和歌集(36首)以下の勅撰和歌集に61首が入集し、定家の小倉百人一首にも採られる。家集に『素性集』(他撰)がある。