| K312:平城天皇 | 在原行平/業平 | AW01:在原行平/業平 |

| リンク | AW02・AW04 |
| 在原行平 | 在原友于 |
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天長3年(826年)、父・阿保親王の奏請により兄弟と共に在原朝臣姓を賜与され臣籍降下する。 |
左京少進・春宮少進・主殿権助を経て、元慶元年(877年)、陽成天皇の即位に伴う叙位にて従五位下に叙爵する。元慶3年(879年に)右兵衛権佐に任ぜられると、元慶7年(883年)には右近衛権少将と武官を務めた。元慶3年(879年)、清和上皇の龍門寺参詣の際、源昇と共に供奉し、大伴・安曇仙人の旧廬を見て往時を偲び涙したという。 |
| 大谷吉継 | 大谷吉治 |
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天正始め頃に秀吉の小姓となった。天正13年(1585年)7月11日、秀吉が近衛前久の猶子となって従一位・関白に叙任されたとき、吉継は従五位下刑部少輔に叙任される。これにより「大谷刑部」と呼ばれるようになる。またこの頃から、本来は違い鷹の羽であった家紋を対い蝶に変更したという。 |
慶長2年(1597年)9月24日に豊臣秀吉や徳川家康らが伏見の大谷吉継邸を訪問した時は、病状の悪化した吉継の代わりに饗宴の対応を務めた。そして、この饗応の目的が、吉継の後継者として大学助をお披露目することにあったことも明らかである。翌慶長3年(1598年)に秀吉が死去すると、形見分けとして「鐘切りの刀」を受け取る。慶長4年(1599年)には家康の命令で失脚していた石田三成の内衆と共に越前表に出兵している。 |
| 木下頼継 | 大谷泰重 |
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大谷吉継の次男とされるが、甥であるとも養子であるともいわれている。父や兄と共に豊臣秀吉の家臣として仕え、越前国内に2万5,000石の所領を与えられて、山城守を受領している。 |
経歴はほとんど分かっていないが、寛永3年(1626年)に息子の大谷重政が越前福井藩に出仕したことから、1600年代初頭から1610年代にはすでに成年に達していたものと思われる。兄とされる大谷吉治や重政の動向から推測すると、大坂の陣後に美作国に移ったと思われる。息子・重政が越前藩に出仕した後の動向は定かでない。 |
| 在原業平 | |
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血筋からすれば非常に高貴な身分だが、薬子の変により皇統が嵯峨天皇子孫へ移っていたこともあり、天長3年(826年)に父・阿保親王の上表によって臣籍降下し、兄・行平らと共に在原朝臣姓を名乗る。 |