清和源氏

G485:奈胡義行  源 経基 ― 源 頼信 ― 源 義光 ― 源 義清 ― 奈胡義行 ― 湯川忠長 G485:湯川忠長

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湯川忠長 湯川光長 湯川光春
 芳養内羽位に館を構える。忠長に関し、甲斐国の生まれで新羅三郎義光の曾孫義行から数えて六代目に当たり、1229年に紀州熊野にやってきて、道湯川に落ち着き居住したという。これによると奈古氏の流れとなる。
山賊退治の恩賞として六波羅探題から牟婁郡一円の地を賜り、この地を治めるために道湯川から芳養の内海に進出し館を構えた(内羽位城)。ここに湯川庄司父娘を迎え、その娘を妻とし、湯川三郎忠長と改称したと伝える。ここに信忠流湯川庄司と奈古氏流とが混じり合ったと推察する。
 忠長のあとを継いだ光長は、牟婁に割拠する諸豪族を配下におさめ、内羽位を中心として泊り城,古屋谷城,土井城,角田城などを築き、湯川氏の威勢を磐石とした。湯川氏の城下は芳養の都と称され、紀南随一の繁盛を見せるに至る。  南北朝期、牟婁地方全体を統治するため、有田,日高,牟婁の中央に位置する日高への進出を試み、まず御坊に亀山城を築いた。以来、日高,有田,牟婁諸郡に勢力を拡張した。また熊野街道から中辺路街道と大辺路街道とに分かれる要衝の地に泊城を築き、領地をいっそう堅固なものとした。