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| 藤原仲麻呂(藤原恵美押勝) | 藤原真先 |
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文武天皇末年の慶雲3年(706年)に藤原南家の始祖である藤原武智麻呂の次男として生まれる。生まれつき聡明鋭敏であり、大抵の書物は読破していた。また、大納言・阿倍宿奈麻呂に算術を学び、優れた学才を示した。内舎人から大学少允を経て、天平6年(734年)従五位下に叙爵され、以降、昇進し太師(太政大臣)となり、恵美大臣とも呼ばれた。しかし、道鏡の出現で孝謙上皇・道鏡と淳仁天皇・仲麻呂との対立は深まり、危機感を抱いた仲麻呂は、天平宝字8年(764年)、軍事力の掌握を企てるが、密告により最後は斬首される。享年59。 詳細はWikipedia「藤原仲麻呂」参照。 |
天平宝字2年(758年)孝謙天皇が譲位して大炊王が即位(淳仁天皇)。仲麻呂は仲麻呂は太保(右大臣)に任ぜられ、恵美押勝の名を与えられる。真先も従五位上兵部大輔兼大和守に進む。 |
| 藤原久須麻呂 | 藤原刷雄 |
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天平宝字2年(758年)1月、東海東山道問民苦使となる。仲麻呂は太保(右大臣)に任ぜられ、恵美押勝の名を与えられると訓儒麻呂も従五位下式部少輔に昇る。天平宝字3年(759年)美濃守に任じられる。 |
天平勝宝4年(752年)遣唐使の留学生として藤原清河に随行、渡航前に無位から従五位下に昇叙される。同6年4月頃帰国したと推察される。天平宝字2年(758年)には父とともに「藤原恵美」朝臣の姓を賜与された。 |
| 藤原仁智 | 藤原辛加知 |
| 仁智以降は刊本の系図類には見えず、光房以前の世系は信頼性が乏しい。 |
天平宝字8年(764年)1月の人事で辛加知は越前守に任じられる。辛加知には変事に備え愛発関を固めることが求められた。同年9月、仲麻呂は都督四畿内三関近江丹波播磨等国兵事使になり軍権を掌握して反乱を計画。仲麻呂は密かに諸国の兵の動員を命じるが、密告により発覚してしまう。9月11日、孝謙上皇側に先手を打たれた仲麻呂は一族を率いて平城京を脱出して勢力地盤の近江国に向かう。孝謙上皇は吉備真備を召して仲麻呂誅伐を命じる。 |
| 藤原徳一 | |
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奈良時代から平安時代前期にかけての法相宗の僧。徳溢、得一とも書く。生没年には諸説があるが、「南都高僧伝」には天平勝宝元年(749年)出生、天長元年7月21日(824年8月23日)没と記されている。 |