清和源氏

G132:土岐光衡  源 経基 ― 源 満仲 ― 源 頼光 ― 源 国房 ― 土岐光衡 ― 妻木弘定 G144:妻木弘定

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妻木煕子 妻木貞徳 妻木頼忠

 明智光秀の妻となり夫婦仲は非常に良かったとされる。結婚直前に疱瘡にかかり、左頬にその跡が残ってしまった煕子を光秀は気にせずに迎えた。道三の嫡男である斎藤義龍と対立し、明智城を落とされて浪人した光秀は美濃から越前に移り、朝倉義景に仕えることになる。生活が苦しい中、連歌会の催しを光秀が担当することになった。酒宴の用意に苦労する光秀をみかねた煕子は、自分の黒髪を売ることで費用を工面したと伝わる。
 天正4年10月14日、煕子は病気になり、光秀は平癒の祈祷を吉田兼見に依頼している。10月24日には平癒したので非在軒という者が銀一枚を持参して礼に行っている。11月2日には、吉田兼見が煕子の病気見舞のために光秀の京都の宿所に行き光秀と面会をしている。
 天正4年11月7日(1576年11月27日)または6月7日(7月6日)に死去。享年は46または36,42とも言う。光秀が重病となった際の看病疲れが元で病死したという。滋賀県大津市の西教寺に墓がある。

 元々は美濃斎藤氏の家臣だったが織田信長による美濃侵攻にあたって織田家臣に転じたものと思われる。織田家中では信長の馬廻を務めた。
 天正10年(1582年)の本能寺の変の時、特に変と同時に軍事行動を起こすなど明智軍に同調する姿勢は見せなかったが、山崎の戦いで明智光秀とそれに味方した妻木広忠が死亡すると、広忠が謀反人に与した責任を取ってか隠居を表明し、18歳の長男頼忠に家督を譲り美濃の妻木村に隠棲した。
 以後、頼忠の指針に干渉する事もなくずっと隠棲生活を送っていた。しかし、慶長5年(1600年)に関ヶ原の戦いを前にして頼忠が徳川家康を支持した事で、豊臣氏を支持する美濃の勢力との小競り合いが起きたときは久しぶりに表舞台に姿を表し、同年8月12日には頼忠と共に出馬して、妻木領から人質を取ろうとしていた田丸直昌家臣田丸具安の軍勢を奇襲し、人質を奪い返すと共に田丸軍の大将2人の首を取る勝利を収めた。元和4年(1618年)2月13日没。享年75。

 天正10年(1582年)本能寺の変で父の貞徳が隠居したため、頼忠が妻木城を継ぐことになった。その頃森長可が可児郡,加茂郡内の反抗する勢力の掃討を開始し、頼忠は当初抵抗したが、勝てる見込みがなく森長可の家臣になった。
 天正12年(1584年)小牧長久手の戦いでは森長可の家臣だったため豊臣秀吉側につき内津峠に布陣した。長可戦死後は跡を付いだ森忠政に仕えた。この頃、ある程度信任を得た頼忠は林為忠の高野城代転身に伴い妻木城代に復している。慶長5年(1600年)の森忠政の信濃国川中島転封には同行せず美濃に残り、徳川家康と通じろようになる。
 同年、関ヶ原の戦い(東濃の戦い)の際には徳川家康側につき、頼忠はこの地域を守るよう命じられ、父の貞徳と共に岩村城主の田丸直昌と戦った。しばらくすると関ヶ原の戦いが終わり、東軍の勝利によって城主田丸直昌も東軍に降った。
 その戦功により慶長6年(1601年)に頼忠は徳川家康から改めて土岐郡内7,500石を所領として与えられた。その頃には妻木城の山麓にある居館にいた。
 その後、佐和山城や加納城の普請奉行を務める。大坂夏の陣では松平乗寿の隊に属し、戦功を挙げた。元和9年(1623年)、59歳で死去。

妻木頼次 妻木頼保 妻木頼黄

 承応2年12月22日(1654年2月7日)に家督相続。父頼利の存命中におこった兄弟不和(妻木騒動)により、次男兵九郎幸広に大富村500石を分け与え、頼次は7000石を知行する。
 万治元年6月18日妻木にて病死し、崇禅寺に葬られる。一説に参勤交代の途中箱根の関で急死したといわれるが、根拠となる史料は存在せず。跡継ぎとなる男子は無く妻木本家は頼次の代で断絶する。その後、妻木村上郷500石へ弟幸広(上郷妻木氏)が大富から移り支配(代官・日東氏)、妻木村下郷800石は一族の妻木彦右衛門頼熊(下郷妻木氏)に加増され、それぞれ明治維新まで続く。

 江戸に生まれる。徳川家光に仕え、使番,目付代と歴任した。この間高遠城の受け取り役などを務めた。元禄9年4月10日に東大寺大仏殿再建の調整役の任を負い奈良奉行に就任した。東大寺の公慶は大仏殿を創建当時の十一間を希望していたが、幕府は財政難から七間での進めたかった。父の重直が勘定奉行の時に二月堂の再建に尽力していることから適任とされた。着任後間もなく元禄9年7月25日に着工するが、完成の直前宝永4年に奈良で68歳で没した。嫡男の頼隆が跡を継いだ。

 1859年、幕臣旗本・妻木源三郎頼功の長男として江戸に生まれる。父の頼功は、1862年長崎表立合御用として赴任するが現地で没した為、3歳で12代当主となった。明治9年(1876年)家屋敷を売却し渡米するが、日本で学ぶよう諭され帰国。1878年、工部大学校造家学科(のちの東大建築学科)に入学、ジョサイア・コンドルに学ぶ。1882年、卒業1年前に中途退学しアメリカ留学。コーネル大学建築学科3年に編入、同大学で学士号を取得した。卒業ののちニューヨークのロバートソン事務所で修行し1885年帰国。
 帰国後は東京府に勤務。国会議事堂建設のための組織である臨時建築局に勤めた。1894年日清戦争の際、大本営の置かれた広島に臨時議院(広島臨時仮議事堂)を建設することが決まると、短期日で完成させ、この功績で叙勲を受けた。また、奈良の東大寺大仏殿修復にも関わった。
 日露戦争後、桂内閣のもとで再び議院建築の機運が盛り上がるが、桂内閣が大正政変のため倒れた後、議院建築の計画も延期となり、妻木は官職を辞任。病気がちになり、1916年死去。

妻木頼矩
 甲府学問所学頭,目付,大目付等を歴任し、慶応4年(1868年)1月9日、徳川慶喜が大坂城を退去したのちの引渡し役を務めた。尾張藩・越前藩の立会いの上徳山藩・岩国藩兵に引渡したが、本丸御殿台所より火の手が上がり城は全焼してしまった。明治2年静岡藩権大参事となった。廃藩置県後は横浜毎日新聞初代主筆を務めた後に文部省,宮内省と歴任した後、帝室博物館で日本美術の調査にあたった。67歳で没した。