清和源氏

G201:源 頼信  源 経基 ― 源 頼信 ― 村上頼清 G501:村上頼清

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村上頼清 村上仲宗 村上惟清

 平安時代中期の武士・官人。母は修理命婦で源頼義の同母弟。従四位下に上り中務少輔,安芸守,肥後守,陸奥守などを歴任する一方、藤原頼通家の侍所別当も務めた『今昔物語』(巻12ノ36)には、貧乏暮らしをする左京大夫として登場する。
 子孫は信濃国に勢力を扶植し、信州村上氏として繁栄している。

 延久4年(1072年)、白河天皇の六位蔵人に任ぜられる。その後、甲斐守となり、承暦3年(1079年)6月の延暦寺大衆による強訴では源頼綱・頼俊・平季衡・正衡などと共に都の防衛に投入される。次いで筑前守に任じ、その任期を終えていた寛治6年(1093年)3月には六条高倉にあった仲宗邸の雑舎が焼亡した。また同年、筑前で捕らえた犯人を連行し上洛した際に関白藤原師通から鞍一具を与えられていることから摂関家とも繋がりを有していた可能性が推測されている。
 しかし、嘉保元年(1094年)8月、白河院殿上人であった長子・惟清が院を呪詛したとして、同じく院に仕えていた顕清・仲清・光清ら子息達と共に連座し仲宗は周防国への配流が言い渡された。以後の動静は未詳。

 父と同じく白河院に近侍し院蔵人を務めた後、寛治7年(1092年)に堀河天皇の六位蔵人となる。嘉保元年(1094年)に三河守に任ぜられるが、同年8月、白河院を呪詛したとして伊豆国への配流が言い渡され、院の側近であった父仲宗及び三人の弟達もこれに連座し同時に失脚した。
 この呪詛事件の詳細については不明であるが、『吾妻鏡』正治元年8月19日条に過去の事例として「鳥羽院が源仲宗の妻である祇園女御を奪った上で配流に処した」との記述があることが知られ、現在では整合性からこれにある「鳥羽院」は白河院、「源仲宗」は惟清を指すものと考えられている。