清和源氏

G502:村上定国  源 経基 ― 源 頼信 ― 村上頼清 ― 村上定国 ― 村上顕忠 G503:村上顕忠

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河野通康 得居通幸

 河野氏の当主・河野通直に厚く信任され、その娘婿として迎えられた。このとき、河野姓を名乗ることも許されている。周防の大内氏の水軍が伊予に侵攻してきたとき、これを撃退したことからさらに通直に重用されるようになり、通直に家督を譲られそうになったが、一族の河野通政をはじめとする河野氏の重臣が反対したため、これは実現せずに終わった。
 弘治元年(1555年)、毛利元就が陶晴賢と厳島にて戦ったときは、伊予水軍を率いて毛利軍の援軍として参陣した。その後も元就に積極的に協力し、対大内,大友氏戦で水軍衆を率いて活躍したという。
永禄10年(1567年)、湯築城にて病死した。

 南北朝時代の伊予の名門・土居氏と得能氏の子孫であると称して、得居姓を名乗った。1582年、弟の通総と共に羽柴秀吉の調略を受け、旧主河野氏より離反し、織田信長に同調。能島の村上武吉ら水軍を中心とした毛利勢に攻められ、四国征伐までの間、通総は京の秀吉の下に逃れた。通年は、伊予国鹿島城に籠城し毛利勢の攻撃に耐えた。四国征伐では先鋒を務めるなどして活躍し、伊予恵良城に3000石を与えられた。その後も小田原征伐などに参戦したが、1597年、慶長の役の鳴梁海戦の先鋒となったが、弟の来島通総とともに戦死した。嗣子なく領地は収公された。
来島通総 村上通清

 永禄10年(1567年)、父の通康が病死したため、7歳という若さで家督を継いだ。通総には兄がいたが、通総の生母が河野通直の娘であったため、家督を相続したものと思われる。
 代々河野氏の影響下にあったが、通総の代においては、元亀元年(1570年)に主君の河野通宣が室町幕府に納めようとした公用銭を横領するなど、次第に河野氏から独立する姿勢を見せ始めた。また、河野氏と毛利氏は同盟関係にあったことから、毛利氏が大友宗麟を攻めたときには援軍として参加し、大友水軍と戦っている。
 天正10年(1582年)、羽柴秀吉の勧誘を受けて織田方に寝返ったため、毛利氏や河野氏に攻められたが、通総はなおも羽柴方としてとどまった。そのため天正13年(1585年)の秀吉による四国征伐では先鋒を務め、その戦功により伊予風早郡1万4000石を与えられて大名となった。その後も天正15年(1587年)の九州征伐、天正18年(1590年)の小田原征伐にも参加した。
 天正20年(1592年)からの文禄の役では水軍を率いて渡海する。慶長2年(1597年)からの慶長の役にも参加するが、9月16日の全羅南道鳴梁海戦で朝鮮水軍と戦い戦死した。享年37。

 備中侵攻を控えた羽柴秀吉によって能島村上氏・来島村上氏の両家臣が招かれ、吉清は来島氏の名代として秀吉と会談し、秀吉側に寝返るように誘われた。能島村上氏は拒絶したが、来島村上氏はこれを契機に毛利氏から離反した。この結果、毛利勢に攻められる事となり、兄・通総らは京へ落ち延びたが、その後も日高城に籠城し、頑強に抵抗したので毛利勢を悩ませたという。
 毛利氏との和睦後、秀吉によって海賊停止令が出ると来島家を辞し、天正年間末に後藤基次と共に黒田氏に仕官するが、ここもほどなくして致仕し、関ヶ原の戦いでは西軍に属して、菅達長と共に伊勢国鳥羽で戦った。
 戦後、浪人していたが福島正則に仕官して2,500石を給される。後、4,212石に加増され、備後三原城城代を務める。この頃、大堤防を築くなど治世に貢献するが、元和5年(1619年)に福島氏が改易されると浪人し、因島に隠棲した。後に紀州藩主・徳川頼宣が人材を求めた際に仕官を勧められ、同じ福島旧臣の大崎長行・真鍋貞成らと共に召抱えられ4,220石を知行された。子孫は紀州藩家老として続いた。

来島康親 久留島通春
 正室は福島高晴の娘(福島正則の養女)・玄興院。慶長2年(1597年)、父の通総が慶長の役で戦死したため家督を継いだ。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、西軍に属し所領を没収された。しかし妻の伯父である福島正則の取りなしにより本多正信を通じ、慶長6年(1601年)幕府より豊後国の内陸部、森(大分県玖珠郡玖珠町)に1万4000石を与えられた。また、名を康親と改めた。飛び地として大分湾に頭成港を領したものの、大半は海に属さない領地であり水軍としての来島氏はこれで終焉した。慶長17年(1612年)病没。  慶長17年(1612年)、父の死去により家督を継ぐ。元和2年(1616年)、姓を来島から久留島と改めた。大坂城普請や江戸城普請において活躍する一方で、父からの老臣である村上氏らを遠ざけて有能な人材を登用し、藩政の整備を行なった。大坂に蔵屋敷も設立し、度重なる普請で財政難に悩まされていたにもかかわらず、これを解決した。承応4年(1655年)2月11日に死去した。享年49。跡を長男・通清が継ぎ明治時代まで存続した。明治から昭和にかけての童話作家久留島武彦は末裔にあたる。 
久留島通胤 久留島通靖
 嘉永5年(1852年)2月16日、甥(異母兄との説もある)で先代藩主の久留島通明が病を理由に隠居したため、その跡を継いだ。嘉永6年11月7日、従五位下信濃守に叙任する。同年、ペリーの来航で国内が混乱すると、通胤は幕府に対して諸藩の意見を広く求めるべき、と薦めている。しかしそれが原因で幕府に疎まれ始め、安政元年(1854年)に勤王的な藩士2名が脱藩すると、幕府から嫌疑をかけられることを恐れて老臣5名を辞任させ、幕府に謝罪するなど開明的ではあったが小藩さながらの力の無さを露呈させてしまった。安政2年12月29日、禁裏造営の手伝いを命じられる。安政6年(1859年)11月、32歳で死去し、長男・通靖が跡を継いだ。

 豊後国森藩の第12代(最後の)藩主。安政6年(1859年)、父の死去により家督を継いだ。幕末期において薩摩藩と密かに接近して尊王論に傾倒し、藩論を尊王論で取りまとめた。そして慶応3年(1867年)の大政奉還後の12月、入京して新政府側に与している。ちなみにこれは、豊後国内で唯一の行動である。慶応4年(1868年)、西国筋郡代窪田鎮勝が日田の西国筋郡代代官所を放棄するとこれを占拠し、のちに朝廷より岡藩とともに警備を任された。
 明治2年(1869年)の版籍奉還で知藩事となり、明治4年(1871年)の廃藩置県で免官された。明治12年(1879年)2月23日、29歳で死去した。通靖の嫡男・通寛は病弱の為、弟の久留島通簡が家督を継いでいる。