| G504:村上為国 | 源 経基 ― 源 頼信 ― 村上頼清 ― 村上為国 ― 村上安信 | G505:村上安信 |

| リンク | G506 |
| 村上義光 | 村上義清 |
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後醍醐天皇と鎌倉幕府との戦い元弘の乱(1331~33年)が始まると、前半戦で敗北し一度は姿をくらました護良親王は、後半戦で再び姿を現し、吉野城に籠城した。これに対し、元弘3年/正慶2年(1333年)初頭、鎌倉幕府は大将・大仏高直,軍奉行・工藤高景,使節・二階堂貞藤(道蘊)らを将とする軍を編成した。閏2月1日(西暦3月17日)、二階堂軍の攻撃によって吉野城は落城した。このとき義光とその次男の義隆が討死した。 |
信濃埴科郡葛尾城主で、武田晴信の侵攻を2度撃退するなどの武勇で知られ、家督相続時には信濃の東部から北部を支配下に収め、村上氏の最盛期に当主となった。実質的には戦国大名としての村上氏最後の当主。 |
| 山浦景国 | 山浦光則 |
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天文22年(1553年)、父と供に武田信玄に追われて上杉謙信(当時は長尾景虎)を頼ってその猶子となり、謙信の養女を娶る。女系ではあるが上杉重房の血をひいていたので、後に上杉氏の一門である山浦上杉家(当時断絶していた)を継いで山浦国清と名乗る。初め、客将として謙信に仕え、川中島の戦いや越中の戦いなど、謙信に従って各地を転戦。謙信死後は上杉景勝に仕えて御館の乱の功績により、景勝から一字を与えられて山浦景国と名乗ることを許された。 |
中納言・猪熊季光(四辻家)の次子として生まれる。伯父には猪熊事件の猪熊教利が、伯母にはおよつ御寮人事件の四辻与津子がいる。はじめ磯野九兵衛と称した。 |
| 村上信貞 | |
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兄の村上義光(義日)が元弘の乱で護良親王に従い、元弘3年/正慶2年(1333年)に大和国吉野で戦死すると家督を相続。建武2年(1335年)に中先代の乱が勃発すると、信濃国内の北条氏残党を平定するため、朝廷から「信濃惣大将」に任じられ、京都から本領の更級郡村上郷に下向した。 |