清和源氏

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井上春忠 井上元有

 天文20年(1551年)、毛利元就の三男で竹原小早川氏当主小早川隆景が沼田小早川氏を相続した際、その側近として隆景を支え活躍した。小早川家文書にある正月の座配立書には永禄11年(1568年)に上座から8番目に記され、一門と同様に「殿」の敬称が付記されている。天正13年(1585年)、主君・隆景が羽柴秀吉に謁見するため上洛した際は随伴し、隆景が天正14年(1586年)からの九州平定に従軍し筑前国を与えられた際は、「御奉行衆」の一人として博多の復興や名島城城下町の整備を指揮した。
 慶長2年(1597年)の隆景没後は、毛利氏家臣団に編入されたが毛利氏譜代の家臣達との軋轢から、慶長6年(1601年)に子の景貞と共に出奔した。その後の消息は不明だが、「長陽従臣略系」に拠ると伊予国の加藤嘉明に仕えて、同地で死去したとされる。
 嫡男・景貞は大阪で死去し、その子・元景の時に毛利家家臣に服したが、その子・就相の時に断絶した。次男・宗右衛門は三原に土着して、江戸時代には角屋姓を名乗って商人となった。子孫には長府藩士となった者、浅野氏に召し抱えられ、芸州藩士となった者がいる

 元有の伯父・光兼の代に毛利弘元に仕えて以後、毛利氏において重要な位置を占める一族となった。その後も安芸井上氏の権勢は増していき、毛利興元の死後30余年に渡って傍若無人な振る舞いが行われるようになった。
 ある時、元有の長男・与四郎が光永四郎右衛門尉の子・彦七郎と論争になった末に、怒りのあまり彦七郎の顔面を拳で殴り大いに辱めた。これを知った元就は与四郎の行動を憎むと共に、光永彦七郎が恥辱を受けながらもそれを雪ぐことが出来なかったことを遺憾とし、両者の父子に自刃を命じようとした。しかし、安芸井上氏は互いに結託して元就の命に従わないばかりか、光永四郎右衛門尉を斬殺してしまったという。
 天文19年(1550年)7月12日、元就による安芸井上氏粛清の手始めとして、元有は安芸国竹原に誘い出され、小早川隆景によって殺害された。翌7月13日には元有の長男の与四郎,弟の元重,元重の子の就義も居宅において殺害されている。
 なお、次男の就正は出雲国へ逃れて尼子晴久・義久父子に仕え、尼子氏滅亡後の永禄10年(1567年)に毛利氏へ帰参した。

井上 馨
Wikipedia参照