| KKR2:高句麗王朝2 | 背奈福徳/高麗若光 | CM01:背奈福徳/高麗若光 | ● |

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| 背奈福徳 | 高倉福信 |
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第19代高句麗王・広開土王の後裔で、その7世孫の延興王の子孫とする。また、第27代高句麗王・栄留王の子とする系図がある。 |
武蔵国高麗郡出身だが、少年のころに叔父・背奈行文に従って上京する。上京して間もないころ、相撲の評判が朝廷にまで届き、召されて内豎所に近侍することを命ぜられる。天平15年(743年)には正五位下・春宮亮に叙任され、皇太子・阿倍内親王に仕えている。天平19年(747年)には同族7名と共に公姓から王(こにきし)姓に改姓する。聖武朝では天皇の寵遇を受けて順調に昇進を果たしている。 |
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背奈行文 |
高麗大山 |
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高句麗系渡来人を集めて霊亀2年(716年)に新設された武蔵国高麗郡に居住していたが、のちに上洛して学問を生かして朝廷に仕えた。養老5年(721年)正七位上・明経第二博士のとき、学業優秀として賞された。神亀4年(727年)正六位上から従五位下に昇叙される。 |
天平19年(747年)従兄弟の背奈福信,弟の広山らと共に王(こにきし)姓を賜与される。天平勝宝2年(750年)一族と共に高麗朝臣に改姓する。天平勝宝4年(752年)遣唐使判官として唐に派遣され、天平勝宝6年(754年)に帰国し正六位上から従五位下に昇叙される。 |
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高倉殿継 |
高麗広山 |
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宝亀8年(777年)訪日していた渤海使・史都蒙の帰国にあたり、殿継は送高麗使に任命された。同年、殿継は渤海に渡るが、遠く辺境の地へ漂着して船が破損してしまう。しかし渤海より船2艘を与えられ、翌宝亀9年(778年)9月に張仙寿を随行して帰国し越前国三国港に到着、同年10月には従五位下に叙爵された。宝亀10年(779年)同族の高麗福信らと共に高麗朝臣姓から高倉朝臣姓に改姓している。宝亀11年(780年)治部少輔に任ぜられる。 |
聖武朝の天平19年(747年)従兄弟の背奈福信,兄の背奈大山らとともに公姓から王姓に改姓する。天平21年(749年)正月から閏5月にかけて、大寺へ139日の上日をして写経・礼仏を行った。天平勝宝2年(750年)一族と共に高麗朝臣に改姓する。 |
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高麗若光 |
高麗聖雲 |
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『日本書紀』天智天皇5年(666年)10月26日条に、高句麗から日本に派遣された使節の一員に玄武若光なる人物がいたとの記述がある。ついで『続日本紀』大宝3年(703年)4月4日条に、従五位下高麗若光に王(こにきし)の姓を与えたとの記述がある。『日本書紀』の玄武若光と『続日本紀』の高麗若光が同一人物ならば、高句麗王族の一人として王姓を認められたということになるが、傍証がないため確認できていない。若光のその後の履歴、また若光以外の高麗王氏の人々について六国史は何も記録を残していない。 |
高句麗王族の高麗王若光の3男とされる。寺念僧・勝楽上人の弟子。 |