<皇孫系氏族>景行天皇後裔

SN02:讃岐千継  紗抜大押 星 ― 讃岐千継 ― 植田政景 SN03:植田政景

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十河一存 十河存保

 天文元年(1532年)、三好元長の四男として阿波勝瑞城で生まれる。讃岐十河城主の十河景滋(存春)の世子の十河金光が早世したこともあり、長兄の長慶の命により景滋の養子となって十河氏の家督を継いだ。
 天文18年(1549年)6月には父の仇である三好政長との摂津江口の戦いで勝利に貢献した。これにより細川晴元の政権は崩壊し、兄・長慶の政権が確立する。天文19年(1550年)の東山の戦いで京都復帰を狙う晴元を阻止、天文22年(1553年)6月の阿波見性寺事件の際も次兄の実休を助けて細川持隆殺害に協力した。永禄元年(1558年)の北白川の戦いに参戦、永禄3年(1560年)には畠山高政との戦いで大勝し、長慶から岸和田城主に任じられた。その後も畿内各地を転戦して功を挙げ、兄を軍事的によく補佐した。
 しかし、永禄4年(1561年)3月18日(異説として4月)、病を患い、子・松浦萬満の後見のために在住していた和泉国で死去した。享年30。実子・義継は長慶に引き取られて後にその家督を継いだため、甥(実休の次男)の存保が養子となって十河氏の家督を継いだ。
 一存の死因は、瘡による病死といわれる。しかし一存が死んだ時に、不仲であった松永久秀が傍にいたことから、当時から京都では久秀による暗殺説が伝聞として流れた。

 義賢の弟・十河一存の養子となり、1561年、一存の死によって家督を相続する。三好氏が織田信長と敵対したとき、存保は信長と争ったが、やがて四国平定を目指す長宗我部元親の勢力が伸びてくるとそれに対抗するため、信長と手を結んだ。後に兄である三好長治が討たれると勝瑞城に入り、実質上の三好宗家の当主となった。そして異母兄であり長治の仇でもある細川真之を攻撃し自害に追い込んでいる。
 1582年、信長が四国征伐を計画すると、存保はその先鋒として讃岐や阿波で奮戦したが、同年6月に本能寺の変が起きて信長が死亡すると存保は後ろ盾を失って勢力が大きく後退し、その後、阿波に攻め込んできた長宗我部軍と中富川の戦いで激突して敗北し、大坂に逃亡した。
 1585年、豊臣秀吉の四国征伐に協力したため旧領を秀吉より与えられて大名として復帰したが翌年、秀吉の九州征伐に従った際、軍監の仙石秀久の無謀な作戦に巻き込まれて戸次川の戦いにおいて戦死した。

十河存英 十河存之
 十河存保の子として生まれる。生年は不詳であるが、天正4年(1586年)に父が討死しているので、それ以前である。天正4年(1586年)、父が戸次川の戦いで戦死すると豊臣秀吉から所領相続を認められずに改易され、幼くして流浪の身となる。慶長20年(1615年)5月、大坂の陣に豊臣方として参陣し摂津尼崎で戦死した。

 一存の養子となった十河存保の家老となる。存保より年上だったという。存保が織田信長に属するとこれに従い、土佐の長宗我部元親と戦った。信長の死後、長宗我部軍の猛攻を受けて存保が敗走すると同時に十河城の守備を任されていた存之も城を落とされて大坂へ逃れた。その後、存保が讃岐十河3万石を領すると共に讃岐へ戻った。
 天正14年(1586年)、仙石秀久率いる豊臣軍に加わって豊後へ侵攻。同年12月12日、戸次川の戦いで討死した。