<神皇系氏族>天神系

KA03:鴨 大角  鴨 大角 ― 鴨 馬養 KA04:鴨 馬養

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鴨 長明
賀茂御祖神社(下鴨神社)の神事を統率する禰宜の鴨長継の次男として京都で生まれた。高松院の愛護を受け、応保元年(1161年)、従五位下に叙爵されたが、承安2年(1172年)頃に父・長継が没した後は後ろ盾を失った。安元元年(1175年)、長継の後を継いだ禰宜・鴨祐季と延暦寺との間で土地争いが発生して祐季が失脚したことから、長明は鴨祐兼とその後任を争うが敗北してしまう。
 和歌を俊恵の門下として、琵琶を楽所預の中原有安に学ぶ。建仁元年(1201年)8月、和歌所寄人に任命された。
 元久元年(1204年)、かねてより望んでいた河合社の禰宜の職に欠員が生じたことから長明は就任を望み、後鳥羽院から推挙の内意も得る。しかし、賀茂御祖神社禰宜の鴨祐兼が長男の祐頼を推して強硬に反対したことから、長明の希望は叶わず、神職としての出世の道を閉ざされる。そのため、長明は近江国甲賀郡大岡寺で出家し、東山、次いで大原、後に日野(現・京都市伏見区醍醐)に閑居生活を行った。
 出家後は蓮胤を名乗った。建暦元年(1211年)には飛鳥井雅経の推挙を受けて、将軍・源実朝の和歌の師として鎌倉へ下向したものの受け入られず失敗している。
 建暦2年(1212年)に成立した『方丈記』は和漢混淆文による文芸の祖、日本の三大随筆の一つである。
文体や時代背景から、作者不明の平家物語の著者であるという説がある。
また、『文机談』には、長明が出家し遁世したきっかけとなったとして伝えられたものに、琵琶の師の亡くなった後に、演奏することを許されていない秘曲『啄木』を演奏したことが知られてしまったためともある。