清和源氏

G602:八島重実  源 経基 ― 源 満政 ― 八島重実 ― 浦野重遠 G603:浦野重遠

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浦野重遠 小河重清

 文治元年(1185年)4月当時、彼は近江国に住む前出羽守として登場する。重遠はこの時すでに年齢80歳に達していたが、鎌倉の源頼朝のもとに参上した。頼朝は累代の家人である重遠の志に感嘆して重遠の舎弟十郎、並びに僧の蓮仁らに扶持を加えた。この時重遠は平治の乱の後も源氏譜代の家人として平家の威勢に従わず、ようやく頼朝が平家打倒の兵を挙げたのを喜んだものの在京の東国武士の乱暴は平家時代以上に酷く、そのために生活が苦しい旨を頼朝に訴えた。頼朝は彼の訴えを認め、その権利財産を安堵した。
 子孫は尾張,三河方面に拠点を持ち、山田氏や足助氏,水野氏などとなった。

 小河又三郎と名乗る。左兵衛尉に任命されたが、反平家勢力に加わって養和元年(1181年)正月に解官される。その後、美濃国で平知盛率いる追討軍と戦って破れ首を討たれた。彼の首級は同年2月16日、帰京して知盛によって検非違使庁に渡された。
水野近守
 水野忠政の前に刈谷城に城主として在城していたことは親交のある連歌師宗長が永正13年(1516年)7月17日に近守を刈谷に訪問して連歌千句を行っていること、大永年間にも計4回の訪問記録があることなどから、この時期に刈谷城主であり連歌に通じた教養人であったことが判明しているが、その他の具体的な行動については不明である。