<神皇系氏族>天神系

KD02:児玉弘行  大部豊日 ― 大部船瀬足尼 ― 児玉惟行 ― 児玉弘行 ― 庄 家弘 KD03:庄 家弘

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庄 家弘 庄 家長

 児玉党本宗家4代目を継いだ後は、児玉党の本宗家である児玉氏から庄氏(荘氏)を名乗り、以降、児玉党本宗家は庄氏を名乗る様になる。北上して本拠地を武蔵児玉郡大寄郷若泉庄の栗崎村[3]に構え館を築いたと考えられる。栗崎に土着し児玉庄太夫家弘を称した。児玉党が児玉氏によって支配されたのは3代目までであり、それ以降は庄氏・本庄氏を名乗り、武蔵の北部国境付近である現在の本庄に館を築く様になった。以後、栗崎・北堀・本庄は児玉党本宗家の領地となる。本庄は内陸部の台地であり、南に大久保山、北に利根川と言った地理条件があった。
 家弘の孫・庄家次の代になり、庄氏本宗家は栗崎館を去り、西日本に土着した為、在地に残った時家により、北堀の地に館が構えられ、本庄氏を名乗る様になる。

 後に備中国の武将となり、猿掛城初代城主となる。
 寿永3年(1184年)2月5日、源氏の両将が摂津国に至り、大手軍の大将軍は源範頼となった。児玉党本宗家の子息である庄氏一族はこれに従い、2月7日、一ノ谷の戦いに参戦する。家長は、平武蔵守朝昌を討ち取り、敗走した生田森の副将軍三位中将平重衡を須磨ノ浦海岸で梶原景季(あるいはその父景時)と共に捕える功績を上げるが、長男である庄小太郎頼家が戦死し、家督を継ぐべき直系が絶える。そこで頼家の弟である三郎右衛門家次を養子にむかえるが、結局、そのまた弟の四郎左衛門尉時家が児玉の庄氏を継ぐ事となる(家次の一族は、その後、備中庄氏となる)。そして、児玉庄氏を頼家に代わって継いだ時家が本庄氏を名乗る事となる。家長は武功をあげた恩賞として備中草壁荘の地頭職を与えられている(この事がきっかけとなって本庄氏が生じたと考えられる)。
 『吾妻鏡』によると、建久4年(1193年)2月9日、武蔵国の丹党と児玉党の両武士団の間で確執が生じ、合戦が生じる直前にまで及んでいた。それを聞いて駆けつけた畠山次郎重忠の仲裁によって、18日には和平をして両党は退いたとある。約10日間の緊張状態が続いていた事になり、もしそのまま開戦していたのなら、武蔵国の武士団勢力分布図に大きく影響を及ぼす事になったと考えられる。

本庄国房 本庄信明

 14世紀初めの正和3年(1314年)7月23日に、由利頼久との間に本庄内の生子(いらこ)屋敷と立野林の畠地について争いが生じ、鎌倉幕府の裁定により、頼久の知行が認められたとされる。しかし、時家の末裔と称される本庄宮内少輔信明の所領中には五十子(いらこ)があり、国房以降、何らかのきっかけで本庄氏が治めたものと見られる(五十子の戦い以降も本庄氏が自分の領地としている)。
 これ以前にも、正応4年(1291年)10月2日に頼久と問題になり、先月26日に示談が成立したが、国房の方になお問題があり、曾祖父である時家より代々相伝してきた筑前国小中庄の地頭職を頼久に与える事となったとあり、4代かけて地頭として治めてきた九州の所領(地頭職)を本庄氏が失ったとされる。

 本庄宮内少輔信明は、北堀,栗崎,東富田,五十子,本庄,傍示堂を所領していた武将で、関東管領山内上杉家に属し、古河公方(足利家)と対立し、上杉家が築いた五十子陣が横側から攻撃される事を想定し、それを防ぐ目的で小山川西岸の北堀地内の東本庄に館を構えた(従って、信明は五十子の戦いを経験したものと見られる)。以降、本庄宮内少輔実忠が弘治2年(1556年)に本庄城を築き、移動するまで、本庄氏は東本庄館を本拠地とした。東本庄館の築造は五十子陣築造(1457年)後間もない頃と考えられ、15世紀中頃の末から16世紀中頃まで機能していた。信明は館の守護神として稲荷神社を勧請している。
本庄実忠 本庄近朝

 天文15年(1546年)、後北条氏の打倒を図った上杉憲政に従い、北条方の河越城の攻略に実忠も加わった。上杉軍は城を包囲して城兵の降伏を待ったが、夜間に城より討って出て来た北条氏康軍に不意をつかれた上杉陣営は総崩れとなった。この時、本庄氏一族の本庄藤三郎が上杉氏の本陣を守り、憲政の脱出を助けた。実忠も手傷を負いながらも奮戦した。実忠は戦場離脱に成功したが、藤三郎は戦死した。この本庄氏一族の奮闘に憲政は感状を発すると共に、実忠には西本庄の地を賜え、藤三郎の遺児である松寿丸には親の恩賞として久下塚の地を与えた。
 天文20年(1551年)に両軍が神川、上里一帯で合戦となった。上杉軍は破れ、上州より越後へ敗走した。以後、本庄氏は後北条氏に服属する事となった。実忠は弘治2年(1556年)に本庄城を築いて本拠を移した。その後、勢力奪還を図った上杉憲政が上杉謙信と共に越後国から関東に進出し周辺を席巻した。実忠も再び上杉旗下に入り、永禄4年(1561年)には後北条氏の本拠地である小田原城の攻撃に従った。永禄10年(1567年)に後北条氏が反撃を開始し、上杉謙信と合戦をするべく厩橋城へ向かった。その途上にある本庄城は北条軍の攻撃を受け落城した。実忠は降伏し、再び北条氏に服属することとなった。
 天正8年(1580年)、85歳(満84歳)で死亡。

 天正8年(1580年)に父実忠が没すると家督を継ぎ、本庄城城主となる。この時、北条氏に服属していた近朝は、家督を継いでから1か月も経たぬうちに東上州に進出して来た武田勝頼の侵攻を受けた。のち織田信長の家臣である滝川一益が厩橋城に入ると、周辺の諸侯と同様に滝川に服属した。天正10年(1582年)に信長が本能寺の変で倒れると、勢力を回復したい北条氏が侵攻してきた。北条氏邦が鉢形城から金窪城へ進軍し、小田原から出馬した北条氏直は本庄に本営を置き、富田,石神に布陣した。北条氏側諸侯と滝川一益側の諸侯はは金窪原で合戦(神流川の戦い)となった。本庄氏は滝川軍に属して北条軍と戦うが、滝川軍が破れた結果、再度北条方に降る事となった。
 天正18年(1590年)、豊臣秀吉による小田原征伐が始まると、本庄城には前田利家が攻め寄せた。関東の北条氏方の諸侯には、軍を動員して小田原城籠城に参加する命が出されており、本庄氏一門も北条氏の居城である小田原城に籠城していた。豊臣氏の包囲の前に小田原城は開城し、近朝は開城後に自害した。家督を継いでから10年目の事であった。
 手薄であった本庄城も5月(7月)27日には開城した。こうして、時家から続いてきた武蔵国(児玉党系)本庄氏は終焉を迎えた。

本庄宗成 牧西弘季

 南北朝時代、守護吉見氏頼が罷免され、かわって本庄宗成が守護に就任する。本庄氏は、もともと珠洲郡若山荘の田所職(荘官)を相伝した土着の家筋である。宗成は、同荘の領家(荘園領主)であった日野資教の家来となって在京し、資教の妹業子が将軍足利義満の正室になると、その乳父として幕閣で権勢を振るうようになっており、将軍の寵臣ともいうべき存在であった。
 こうした立場を背景に、宗成は早くから能登守護を望んでおり、守護の吉見氏頼と険悪な関係にあった。そして康暦元年(=天授5年,1379)の政変が起こると、幕府の中枢にあった細川頼之が失脚し、それに伴い細川氏の支持者であった吉見氏頼も失脚した。かねてより細川氏と対立関係にあった新管領の斯波義将体制のもとで、従来頼之党に属してきた能登守護の吉見氏頼が、その職を罷免され、かわって本庄宗成が念願の守護の地位を得たらしい。
 永和3年(天授3年)(1377)8月、宗成が将軍義満に能登守護職を競望して、許されそうになったが、このとき守護の吉見氏頼が、宗成を誅伐しようとする騒動を起こしたため果たされなかった。宗成は義満の寵臣となって、洛中の治安を取り締まる検非違使の職に登用されていたが、依然として能登守護の地位を狙い続けていたらしく、康暦の政変で吉見氏の勢力が後退したのを機に、その職を奪ったものであった。
 しかし、寵臣としてのし上がった本庄氏の能登守護職も、その後しばらくして頓挫し、明徳2年(=元中8年,1391)の暮れ頃には、室町幕府の有力一門の畠山基国が、河内・越中に加えて、能登守護も兼務するようになった。

 牧西は木西とも記す。児玉党系牧西氏の祖。父は、児玉党本宗家4代目庄太夫家弘の次男庄太夫弘高で、初めは庄氏を称しており、のちに姓となる。父が児玉郡四方田村に居住し、四方田氏の祖となった事で、弘季も四方田四郎を称した。その後、弘季は児玉郡の牧西村に居住し牧西氏祖となったと伝えられている。『吾妻鏡』によれば、承久3年(1221年)に起きた承久の乱で、鎌倉幕府(北条泰時)軍に属して戦い、敵を1人生け捕る功績をあげている。
 牧西氏関連の系図によれば、庄太郎家長、(久下塚)二郎弘定、(四方田)三郎弘長、(四方田)五郎弘綱、(四方田)七郎高綱などを兄弟とするとあるが、確実に兄弟と考えられるのは弘綱と高綱のみである。また、『武蔵七党系図』には、久下塚二郎弘定の孫が木西を称したとあり、「木西左近四郎経季」として記述されている。しかし、『武蔵七党系図』に記述されている事は信憑性が低く、児玉党の本宗家一族の系図にむりやり組み込まれたものと考えられる。第一に、弘定の父を家長としており、通し名の観点から言えば、別の七党系図に記述された、弘定の父は弘高であるとする方が信憑性は高い。第二に、『鎌倉武鑑』にも「弘季は弘高の三男である」と記述されている。この事からも、牧西弘季を久下塚弘定の孫であるとする『武蔵七党系図』の記述は意図的に創作されたものと見られる。
庄 忠家 蛭川高家
 寿永3年(1184年)の一ノ谷の戦いにて、庄太郎家長や庄五郎弘方など他の兄弟と共に源氏方に仕えて奮戦し、武功を上げた児玉党の武士である。『吾妻鏡』には、庄太郎家長と共に源範頼の大手軍に従い、「庄司三郎忠家」の名で記されている。文治5年(1189年)では、源頼朝の大手軍に従い、兄弘高などと共に奥州合戦にも参戦した。『吾妻鏡』には彼の最後が記載されている。承久3年(1221年)に起きた承久の乱で、弟の庄五郎弘方や兄弘高の子息である庄四郎弘季と共に鎌倉幕府軍(北条泰時)に属して活躍するも、山城国の宇治橋の合戦では討死にしたとある。従って没年月日は、6月13日(あるいは14日)と考えられる。
 庄三郎忠家は兵衛佐頼朝に仕えたが、弟の庄四郎高家は左馬頭木曾義仲に仕えた。元暦元年(1184年)正月、義仲が粟津で敗死すると、忠家は弟の高家が敵方にいるのを悲しみ、何度か投降するように誘うも、高家は孤忠をひたすら守り、兄に従わなかった。忠家はただちに高家がいる敵先陣をうかがい、格闘の末、捕らえ虜にした。源義経は忠家と高家の兄弟の深い友愛節義を感じて高家の処刑を免じたとされる(その後、高家は義経の家人となった)。

 『平家物語』「重衡生捕」によると、高家は一ノ谷の戦いで梶原景季と共に平家の大将・平重衡を捕らえたとされる。落馬した重衡が自害しようとしたところを景季に先駆けて高家が駆けつけ、馬から飛び降りて自害を止め、自分の馬に乗せて護送したという(ただし、伝承によっては、家弘の長男家長が捕らえたとも、三男忠家が捕らえたともある)。『児玉党家系図』及び一部の『武蔵七党系図』によると、一ノ谷の戦いにおいて、但馬守経正を討ち取ったとあるが、『平家物語』では、経正を討ち取ったのは河越重房とされるため、信憑性は不明である。
 『吾妻鏡』文治元年(1185年)11月2日条によると、高家は源義経の家人であったが、義経の都落ちには従わず、西国へ向かう船の手配のために義経から遣わされていた越前国の武士斎藤友実と行き会った所を「元のように義経に味方しましょう」と偽り、義経にその旨を伝えるため友実が高家を連れて行こうとした所を殺害している。『玉葉』10月30日条では義経から西国行きの乗船手配に派遣された郎従は紀伊権守兼資で、それを殺害したのは太田頼基となっている。
 奥州合戦時(1189年)には、他の兄弟達と共に源氏方に従って参戦している。また、建久元年(1190年)、源頼朝の上洛に際し、後陣随兵として従っている。『児玉党家系図』及び一部の七党系図によれば、承久2年(1220年)10月17日に出家したとあるから少なくとも13世紀初めまでは生存していた。

阿佐美弘方 阿佐美実高

 平安時代末期から鎌倉時代の武蔵国児玉党の武士。庄五郎弘方は、三郎忠家や四郎高家など他の兄弟と共に源氏方に属し、各戦に参戦した児玉党の武士である。『源平盛衰記』によれば、宇治川の戦い(1184年)において、「宇治川の先陣争い」で、先陣(佐々木高綱や梶原景季)に続いて川を渡った事が記されており、武勇人として知られている。そのまま源範頼軍に従い、一ノ谷の戦いにも参戦した。『吾妻鏡』によれば、承久3年(1221年)に起きた承久の乱において、北条泰時(鎌倉幕府)軍に従い、山城国の宇治橋合戦で、庄四郎と共に敵を一人ずつ生け捕る功績を上げるが、この戦で兄の一人である三郎忠家が戦死している。
 庄五郎弘方は栗崎を南下して、現在の児玉町入浅見地区に移住し(下浅見新堀に移住したとも)、阿佐美氏の祖になったとされる。阿佐美氏は上州,越州,加州の方にも領地を獲得することとなる。

 『吾妻鏡』では、建久元年(1190年)11月7日条に、源頼朝が上洛する際、先陣随兵の17番に阿佐美太郎の名が確認できる。児玉党の庄氏や四方田氏と共に将軍の上洛に際し従っていた。また、建久6年(1195年)の将軍家東大寺供養の際にも先陣随兵として「淺見太郎(実高)」の名が確認できる。正治2年(1200年)1月19日に左衛門尉に任ぜられ、建保4年(1216年)12月14日には右衛門尉に任ぜられた。その25年後の仁治2年(1241年)に没したと『武蔵七党系図』には記載されている。
 実高は児玉郡の入浅見(児玉御庄)の他、上野国高山御庄,吾妻郡小中山村や越後国荏保・横会禰保、加賀国島田村領などにも所領を有していた。これらの各所領は子息達が領有することになったとされる。