<神皇系氏族>天神系

KD02:児玉弘行  大部豊日 ― 大部船瀬足尼 ― 児玉惟行 ― 児玉弘行 ― 入西資行 KD07:入西資行

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真下基行

 『武蔵七党系図』の伝承によれば、子息の一人である二郎弘忠は、上真下村に居住したとあり、居館跡は確認されている。別の系図では、基行の三男四郎弘親(本来の通称は三郎が正しいと考えられる)は、賀美郡勅使河原村へ移住したとある(当村は丹党の支配下にある領域である)。
 建久元年(1190年)、源頼朝入洛の際、後陣随兵の中に「真下太郎」の名が見え、基行の子息である弘忠を指すものと見られている。嘉禎4年(1238年)、4代将軍藤原頼経の入洛にも真下右衛門三郎の名が随兵の1番目に見える(真下三郎は弘親に比定できる)。
 その後、真下氏の一族は、鎌倉・室町時代を通して、弓の名手として名を知られていく。鎌倉から室町期にかけて、京の弓始行事である「御的」の射手の成績を記録した『御的日記』に真下氏一族の名が散見できる。