<皇孫系氏族>垂仁天皇後裔

AF01:阿保須珍都斗王  阿保須珍都斗王 ― 比企遠宗 AF02:比企遠宗

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比企遠宗 比企能員

 藤原秀郷の系譜とされ、波多野氏の系図で実名を遠宗とするものもある。官職は掃部允。
 頼朝の伊豆配流に伴い、武蔵国比企郡の郡司職となって妻と共に都から領地に下向した。『吾妻鏡』治承4年8月9日(1180年8月31日)条に、平家が比企掃部允と北条時政が頼朝を大将に立てて謀反を企てていると警戒していたことが語られるが、掃部允はこの時すでに死去している。

 能員の叔母である比企尼は頼朝の乳母を務め、頼朝が流人となったのちも20年間支援を続けた忠節の報いとして、甥である能員を猶子として推挙し、その縁によって能員は頼家の乳母父に選ばれている。頼家誕生にあたって最初の乳付けの儀式は比企尼の次女(河越重頼室)が行い、比企尼の三女(平賀義信室),能員の妻も頼家の乳母になっている。
 能員はその後も頼朝の信任厚い側近として仕える。元暦元年(1184年)8月の平氏追討に従軍、文治5年(1189年)の奥州合戦、翌年の大河兼任の乱出陣などに活躍している。同年に頼朝が上洛した際、右近衛大将拝賀の随兵7人の内に選ばれて参院の供奉をした。さらに、これまでの勲功として頼朝に御家人10人の成功推挙が与えられた時、その1人に入り右衛門尉に任ぜられる。
 建久9年(1198年)、娘の若狭局が頼家の側室となり、長男・一幡を産むと外戚として権勢を振った。正治元年(1199年)1月に頼朝が死去したのち、十三人の合議制の1人に加えられている。
 しかし、建仁3年(1203年)、北条時政,義時により一族ともども殺害された(比企の乱)。

丹後内侍 比企(三女)

 『吉見系図』によると、京の二条院に女房として仕えており、「無双の歌人」であったという。惟宗広言と密かに通じて島津忠久を生み、離縁したのち関東へ下って安達盛長に嫁いだとしている。盛長は頼朝の流人時代からの側近であり、妻の縁で頼朝に仕えたと見られる。二条院には源頼政の娘二条院讃岐が女房として出仕している。
 『吾妻鏡』によると養和2年(1182年)3月9日、頼朝の妻、北条政子が嫡男・頼家を懐妊した際、着帯の儀式で給仕を務める。2人の妹(次女・三女)は頼家の乳母となっている。
 文治2年(1186年)6月10日、丹後内侍が病になると、頼朝は供2人だけを伴い、盛長の屋敷を密かに訪れて見舞っている。頼朝は彼女のために願掛けをし、数日後に丹後内侍が回復するといくらか安堵したという。
 このように頼朝に近しい女性であったことから、後年、子の景盛が頼朝の子であるとする風説が出たり、のちの島津氏が祖の島津忠久を彼女と頼朝の子であると主張するなど、彼女を母とした二つの頼朝落胤説が見られるが、『吾妻鏡』をはじめとする当時の史料に丹後内侍が頼朝の子を産んだとする記録はない。

 はじめ伊豆国の豪族伊東祐清に嫁ぐ。伊豆国で流人として日々を送っていた頼朝は、祐清の姉妹である八重姫と恋仲となって初子千鶴丸をもうける。八重姫の父伊東祐親は二人の関係を許さず、子を殺害して頼朝も討とうと計った所を、三女を通じて頼朝と親交があった祐清が頼朝に身の危険を知らせて事なきを得た。
 この事件の1年後の安元2年(1176年)10月、曾我兄弟の父で祐清の兄河津祐泰が工藤祐経の企みにより落命し、子のなかった祐清・三女夫妻は祐泰の死後5日目に生まれた男子を引き取った。
 治承4年(1180年)8月、頼朝が平氏打倒の兵を挙げると、夫祐清は平家方として頼朝と敵対する事となり、頼朝軍に捕らえられた。『吾妻鏡』治承4年10月19日条によると頼朝は祐清にかつて自分を助けた事による恩賞を与えようとしたが、祐清は父が頼朝の敵となっている以上その子である自分が恩賞を受ける事は出来ないとして暇を乞うて平家に味方するために上洛し、また『吾妻鏡』建久4年(1193年)6月1日条によると平家軍に加わった祐清は北陸道の合戦で討ち死にしたとしている。一方で『吾妻鏡』寿永2年(1182年)2月15日条では、祐親が自害を遂げた際、祐清が自らも頼朝に死を願い、頼朝は心ならずも祐清を誅殺したとしている。
 未亡人となった三女は連れ子を伴って源氏一門で頼朝の信頼深い平賀義信に再嫁した。姉(河越尼)と共に寿永元年(1182年)に誕生した頼朝の嫡男・頼家の乳母を務める。
 建仁2年(1202年)、夫義信に先立って死去し、3月14日に2代将軍頼家と北条政子が三女の冥福を祈るため、永福寺で多宝塔供養を行っている。

姫の前 比企宗員

 源頼朝の大倉御所に勤める女官であった姫の前は頼朝のお気に入りでたいへん美しく、並ぶ者のない権勢の女房であった。義時は一年あまりの間姫の前に恋文を送っていたが、姫の前は一向になびかず、それを見かねた頼朝が義時に「絶対に離縁致しません」という起請文を書かせて二人の間を取り持ったという。こうして建久3年(1192年)9月25日、姫の前は義時に嫁ぎ、建久4年(1193年)義時の次男・朝時を、建久9年(1198年)三男・重時を産む。
 建仁3年(1203年)9月、比企能員の変が起こり、実家である比企氏が夫・義時率いる軍勢によって滅ぼされる。『明月記』によると、姫の前は比企の乱の直後に義時と離別して上洛し、源具親と再婚して輔通を生んだものと見られる。天福元年(1233年)に朝時の猶子となった具親の次男・源輔時も姫の前所生と見られる。

 父能員が乳母父を務めた2代将軍源頼家の近習として仕える。頼家が十三人の合議制に反発して指名した、取り次ぎ・狼藉不問の特権を持つ5人のうちの1人に弟時員と共に選ばれる。
 建仁3年(1203年)9月、北条氏との対立による比企能員の変で討ち死にした。

比企時員 若狭局

 父能員が乳母父を務めた二代将軍源頼家の近習として仕える。頼家による蹴鞠の会には毎回出席している。頼家が十三人の合議制に反発して指名した、取り次ぎ・狼藉不問の特権を持つ5人のうちの1人に兄宗員と共に選ばれている。
 建仁3年(1203年)9月、北条氏との対立による比企能員の変で討死にした。

 父能員は初代将軍源頼朝の乳母・比企尼の甥であり、その縁故によって頼朝の嫡男・頼家の乳母父となった。頼家の妻妾となった若狭局は建久9年(1198年)、頼家が17歳の時に長子一幡を生む。
 一幡が6歳になった建仁3年(1203年)8月、病となった頼家が危篤状態に陥り、その家督相続を巡り若狭局の一族比企氏と、頼家の母方の外戚北条氏との対立による比企能員の変が起こる。9月2日、能員が北条時政によって謀殺され、知らせを受けて一幡の屋敷である小御所に立て籠もった比企一族は北条義時率いる大軍に攻められ、屋敷に火を放って自害し、一族は滅亡した。『吾妻鏡』では一幡と若狭局もその時焼死したとしているが、『愚管抄』によると一幡は母が抱いて逃げ延びたが、11月になって北条義時の手の者によって刺し殺されたという。

比企能本

 1203年(建仁3年)鎌倉幕府における比企氏と北条氏の対立による比企能員の変で父能員と一族が滅ぼされるが、能員の妻妾と2歳の男子は助命され、和田義盛に預けられたのちに安房国へ配流となった。
 『新編鎌倉志』によれば、生き残った能本は伯父の伯蓍上人に匿われて出家し、都で順徳天皇に仕え、承久の乱後に順徳天皇の佐渡島配流に同行した。のちに四代将軍藤原頼経の御台所となった姪の竹御所の計らいによって、鎌倉に戻ったという。1253年(建長5年)能本は日蓮に帰依する。
 竹御所死後にその菩提を弔うため、比企ヶ谷に法華堂を創建し、のちの妙本寺の前身となる。1260年(文応元年)北条政村の娘が比企氏の怨霊に取り憑かれるという事件があり、妙本寺の境内にある蛇苦止堂は政村の建立であるという。妙本寺は当初竹御所の法華堂として始まり、文応の事件によって北条氏により比企氏の怨霊供養として法華堂が建てられ、比企一族の菩提寺となったと見られる。