新羅系渡来氏族

MY01:三宅豊背古  三宅豊背古 ― 児島高徳 MY02:児島高徳

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児島高徳 三宅高貞(高範)

 高徳の出自に関する説は大別して二つある。皇胤説と渡来系説である。前者は、後鳥羽天皇の後裔という説と宇多天皇の後裔という説に分かれ、後者は天之日矛の後裔という説である。
 備前国児島郡の豪族であった。「三郎」という名乗りであり、一説に高徳は三男であり、長兄に僧・宴深、次兄に次郎範重が居り、下に妹が一人居るとされる。
 元弘2年(1332年)、後醍醐天皇は、先の元弘の変に敗れ隠岐へ遠流となる。この時高徳は、播磨・備前国境の船坂山において、一族郎党二百余騎で佐々木導譽ら率いる五百騎の天皇護送団を強襲、後醍醐天皇の奪還を画策するが、天皇一行の移動経路誤判によって失敗に終わる。高徳は天皇一行を播磨・美作国境の杉坂まで追うものの、その時既に天皇一行は院庄付近へ達しており、完全な作戦失敗の前に軍勢は雲散霧消してしまった。
 その際、高徳ただ一人が天皇の奪還を諦めず、夜になって院庄の天皇行在所・美作守護館の厳重な警備を潜り侵入する。やがて天皇宿舎付近へ迫るも、それまでの警備とは段違いな警護の前に天皇の奪還を断念、傍にあった桜の木へ「天莫空勾践 時非無范蠡」(天は春秋時代の越王・勾践に対するように、決して帝をお見捨てにはなりません。きっと范蠡の如き忠臣が現れ、必ずや帝をお助けする事でしょう)という漢詩を彫り書き入れ、その意志と共に天皇を勇気付けたという。
 元弘3年(1333年)、先の船上山の戦いにおいて幕府軍に対し勝利を収めた後醍醐天皇は、名和長年ら中国地方周辺の勤皇派諸将を結集、京への還幸の為の露払いとして頭中将・千種忠顕を総大将とした先発隊を送り込み、先に京を囲み南北六波羅探題を攻撃していた播磨国の赤松円心と合流させる。
 高徳はこの先発隊に従軍していたものの、総大将・千種忠顕との作戦上での衝突が原因で別働隊を率い布陣を行う。この時大将の忠顕は功に逸り大敗、布陣途中であった高徳は先に後醍醐天皇方に回った足利高氏勢らの京都総攻撃に遅れをとり、戦功を挙げることなく退却し、備前児島へ帰還した。この戦いの後の論功行賞で、高徳は旧領安堵、及び鳥取荘を賜った。
 建武2年(1335年)、足利尊氏に呼応して備中国で反乱が起こり高徳が討伐に向かうが、却って拠点であった備前三石城を奪われた上に配下の内応によって一族の大半が討たれてしまう。翌年には新田義貞とともに足利方の赤松円心を攻めるものの大敗、養父・範長は赤松軍によって自害させられ、本人も戦闘中に気を失ってしまい、居合わせた甥の機転によって辛うじて逃げ延びた。その後は義貞や宗良親王とともに北陸や東国を転戦している。後に故郷において再起を図るもこれにも失敗して吉野の後村上天皇のもとへ逃れる(高徳を『太平記』の著者とする説によれば、この時期に原本が書かれたとされている)。正平7年/文和元年(1352年)に後村上天皇を奉じて上洛を試みたとされるが、以後の消息については諸説があって不明である。

 三河国に定着し、子孫には江戸時代に田原藩主となった三河三宅氏が出たとされるが、三宅氏の出自についても別の説があり、伝えられている説(三宅氏系譜)にも疑問点が多く、備前三宅氏には戦国時代の三宅弥平次などが子孫であるとするには至らない。また、三宅氏全体についても『三宅氏正伝記』の正当性の疑問符や、天之日矛後裔説の信憑性に欠ける点などがあり、先祖や子孫であるとするには至らない。
三宅清宜 三宅清貞
 1493(明応2)年、三宅加賀守清宜のときに井田野で挙母城の中條出羽守,寺部城の鈴木日向守,八草城の那須宗左衛門,上野城の阿部孫次郎らと共に約4,000の連合軍で松平宗家4代の松平親忠の約2,000の兵に戦いを挑むが惨敗した(第二次井田野合戦)。  16世紀になって、三宅氏は高橋荘東方の北部および足助西部にまで勢力を拡大し、松平・今川・織田氏と対立、あるいは連合,服属を繰り返している。亨禄3年(1530)、三宅政盛は松平清康に攻められ降伏。翌四年、清康は伊保城を攻め、城主三宅周防守清貞は戦いに敗れて広瀬城に逃走する。
三宅高貞 三宅政貞
 天文2年(1533)三宅右衛門大夫高貞は中条・鈴木・阿倍氏らと連合して松平清康に対抗したが、敗走。

 永禄9年(1558)元康に降り以後松平氏の家臣となった。
 以後、三宅氏は徳川家の上昇期にあい、その子康貞、ついで康信,康盛は徳川家康の麾下として活躍した。そして康貞は三河挙母に一万石を与えられた。

三宅正次

 元亀3年(1572年)の三方ヶ原の戦いでの徳川家康の敗走に従い、天正3年(1575年)の長篠の戦いにも従軍。天正10年6月2日(1582年6月21日)の徳川家康の伊賀越えに随行している。
 天正12年(1584年)の長久手の戦いでは、高力正長と共に堀秀政の軍を攻め、首級を挙げたが、軍法に違反したとして一時籠居させられた。天正18年(1590年)の小田原征伐では、和議の使者として韮山城に赴いた。その後、武蔵国足立郡指扇領において5000石を与えられた。
 慶長元年12月5日(1597年1月22日)、久野宗能の嫡子宗朝の私怨によって殺害された。あるいは慶長4年(1599年)に死去ともされる。