竹谷松平家

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松平清善 松平清宗 松平清昌
 永禄3年(1560年)、桶狭間の戦いで今川義元が討ち死にすると徳川家康に従い、今川氏から離反したため、人質として差し出していた娘は殺害された。永禄元年(1558年)に家康より、丸子城の守備を命じられる永禄5年(1562年)に鵜殿長照の居城・上ノ郷城を攻め落として功績を立てた。元亀3年(1572年)、遠州・宇津山城番となる。天正15年(1587年)に死去。

 竹谷松平家の武将として徳川家康に仕える。永禄6年(1563年)、三州一向一揆鎮圧戦に参戦、その武功から陽の目を見る。永禄7年(1564年)、家康による三州東部の拠点・吉田城攻略戦に参戦。龍拈寺口での戦闘で2ヶ所に被傷するも首級5つを挙げる。
永禄11年12月(1568年)、家康が遠州へ侵攻するとこれに応じた。
 当時の三河軍団編成としては、西の中核・岡崎城に対し東の中核が吉田城。吉田城代・酒井忠次の指示を仰ぐ諸豪の中に清宗の竹谷松平家も組み込まれていた。
 元亀元年6月29日(1570年)、江州姉川戦へ参戦。天正3年5月21日(1575年)、長篠の戦いには酒井忠次の奇襲隊として参戦。同10年(1582年)、家康の駿州併呑後には興国寺城に2000貫で配され、与力50人も付される。ただし、小牧長久手戦には嫡子・家清ともども参ぜず、興国寺城に留まって相州後北条氏に備えた。
 同18年(1590年)、小田原の役に参陣。この時の家康勢の陣立てのなかで清宗の竹谷(もしくは興国寺)衆は「二の先手」7組の中に組み込まれ、7組の最左翼を務めた。
 翌19年(1591年)、戦勝に伴う三河軍団の関東国替え。清宗は武州児玉郡八幡山1万石の領主となる。居城は雉岡城といわれ、8~9月頃の入封らしい。まず、入封後の施策としては“この年いっぱいまでに領内へ転住してきた住民へは、次年の諸税免除”を約して領民の増加を図ったという。また、嫡子・家清への家督禅譲は、この八幡山領有時で入封後、間も無くしてからといわれる。
 慶長5年(1605年)、関ヶ原以後の転封先である三州吉田城3万石で余生を送っていたが死去。一説に68歳と伝わる。吉田城下には菩提寺・全栄寺が創建され、そこに葬られた。

 慶長17年(1612年)、江戸城の書院番士だったが、父の死後間もない中、嫡兄・忠清まで卒去。三河吉田藩の竹谷松平家は無嗣除封となる。だが、竹谷松平家のこれまでの働きを惜しんでか、幕府は封地没収としながらも替地として縁ある三州宝飯郡西ノ郡領の地へ清昌を配す。11ヵ村5000石の領主として、清昌への跡式相続が許されることとなった。こうして竹谷松平家は大名から交代寄合となった。
亡き父・家清には弟・清定が在って、そのまま家に残って家老格として働きを示し三河吉田藩では3200石を給されていたという。藩内で重きを成していた清定は既に亡き人であったが、その子で忠清、清昌兄弟の従弟にあたる清信への相続も考慮された。ところが、清信はまだ9歳と幼く、より年長の清昌を跡目とした判断といわれる。
 大坂の陣へは、冬夏共に36騎を率いて参戦。元和3年(1617年)7月、秀忠将軍の上洛に随従。父、兄以来続く玄蕃頭に叙任される。武芸にも励んでいた清昌は、弓の印可目録4巻を授けられている。
 寛永3年(1626年)、大御所・秀忠の再上洛に供奉。二条城での宴のために後水尾帝と中宮和子(家光の妹)が御移りになられるために9月6日、お渡りになられる前に女官ら関係者3000人による衣装など必需品が運び込まれてから、ようやく中宮の御車が出立。その御車の直前を進む騎衛の諸大夫20人がいたが、清昌もその中の1人だった。
寛永9年(1632年)、大御所・秀忠死去による遺金として銀3枚を拝領。
 寛永10年(1633年)、同7年に務めて以来2度目の大坂城の勤番。普通は万石大名の仕事である。しかも警備など必要な人員は自身の家臣を国許から補う事になっていたため、清昌の負担は重かったと考えられる。寛永13年(1636年)、大坪流馬術の秘伝目録を授かる。明暦元年(1655年)死去。
 浅野家と縁が有り、忠清・清昌らの姉妹が浅野長重へ嫁いでいることによる。その姉妹と長重の間の男子が浅野長直であったが、嗣子がしばらく居なかった。そこで家格こそ低下しながら清昌の人品の高さに期待がかけられ、清昌の子の1人を長直の嗣子に望まれた(後の浅野長賢)。ところが長賢の入嗣後、浅野長直に実子が誕生。すると養子・長賢は2男の扱いを受け、3500石の旗本となった。この実子は長じて浅野長友となり、長友の嫡子が赤穂事件で有名な内匠頭長矩である。