形原松平家

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松平康信 松平信庸

 慶長5年(1600年)2月9日、上総五井の領主(後に下総佐倉藩の初代藩主)である松平家信の次男として上総五井で生まれる。慶長6年(1601年)に父と共に三河形原藩に移った。慶長17年(1612年)に従五位下・若狭守に叙位・任官する。慶長19年(1614年)から始まった大坂の役では、冬・夏共に徳川方として参加した。
 寛永15年(1638年)、父の死去により家督を継いで佐倉藩の第2代藩主となる。寛永17年(1640年)9月28日に摂津高槻藩に移封される。慶安2年(1649年)7月4日、1万4000石を加増されて5万石とされた上で、丹波篠山藩に移封された。篠山藩政では、4ヵ年にわたる検地を実施して郷村制度を確立し、さらに旧勢力である土豪を一掃して藩政を確立している。また、寛文6年(1666年)には丹後宮津藩主・京極高国が改易されたときの宮津城受け取り役を務めたことなどから、寛文7年(1667年)12月28日に従四位下に昇叙された。
 寛文9年(1669年)9月29日、老齢を理由に家督を長男・典信に譲って隠居する。しかしその典信が寛文12年(1672年)に早世したため、孫の松平信利を第3代藩主に擁立し、自らは後見人として藩政を執った。その信利も早世したため、信利の弟・松平信庸を新たに擁立して、天和2年(1682年)6月13日に死去するまで藩政を執った。享年83。

 兄で3代藩主の松平信利が病弱で子がなく死去したため、兄の養嗣子となり12歳で家督を相続する。
 万尾時春(算術・経済学者)、松崎蘭谷(古義学・伊藤仁斎の高弟)を藩に招聘して藩学の基礎を確立する一方、儒者の奈良由繹,太田資置をして「篠山領地誌」を編纂した。
 藩財政は思わしくなく、1703年(元禄16年)に洪水、1709年(宝永6年)には干魃、1715年(正徳5年)には再び洪水と、災害が相次ぎ、百姓一揆も起こっている。
 幕府では奥詰(将軍の近習)を経て、京都所司代に抜擢され、在任中、京都の大火復興、中御門天皇践祚の儀になどに携わる。その後老中にのぼったが、正徳5年(1715年)ごろから病気がちとなり在任1年半で辞任する。
 酒井忠清の娘を正室としたため、綱吉政権時代には辛い立場だった。宝永二年の京都所司代時代に、義兄で大留守居役の酒井忠挙が将軍名代として上洛し、信庸が領地からの収入では任務を果たすのが厳しいことを目の当たりにした。後に吉宗政権時に、酒井忠挙は吉宗の政治顧問的存在として度々政策立案に関与したときに、信庸が少ない領地で大任を果たす苦労を提言した。吉宗は、忠挙の提案を受け入れ、享保の改革では足高の制を施行した。 

松平信正

 嘉永5年(1852年)4月29日、第6代藩主・松平信豪の七男として生まれる。はじめ家督は兄の松平信敏が継ぐ予定だったが、信敏が慶応元年(1865年)に死去したため、信正が松平信義の養子となって、慶応2年(1866年)に家督を継いで第8代藩主となる。
幕末期は佐幕派だったが、慶応4年(1868年)の戊辰戦争で新政府の圧力を受けて降伏し、東征に参加している。明治2年(1869年)の版籍奉還で亀山藩知事となり、亀山を亀岡と改称した。明治4年(1871年)、廃藩置県で知藩事を免官される。明治42年(1909年)10月28日に死去。享年58。