<皇孫系氏族>神武天皇後裔

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阿蘇惟澄 阿蘇惟村 阿蘇惟忠

 阿蘇氏の庶家である恵良惟種の子として誕生。阿蘇氏8代当主・阿蘇惟時の婿養子となって家督を継いだ。
 元弘3年(1333年)、幕命を受けて楠木正成が立て籠もる千早城攻めに参戦しようとしたが、その途上で護良親王の令旨を受けて官軍側に寝返った。建武3年(1336年)、阿蘇氏当主・惟直に付き従い、九州に落ちてきた足利尊氏と多々良浜の戦いにて戦ったが敗れた。この戦いで当主惟直とその弟・惟成が戦死し、前当主の惟時も在京していたため、尊氏は阿蘇惟時の庶子である坂梨孫熊丸を阿蘇大宮司に任じた。惟澄はこれに納得せず孫熊丸に反抗し、阿蘇氏の分裂が始まった。翌延元2年/建武4年(1337年)、惟澄は菊池氏と南朝勢力回復のため九州に下向してきた懐良親王を擁立し、北朝方の九州探題・一色範氏の軍勢と交戦し勝利している。
 興国元年/暦応3年(1340年)、惟澄は遂に肥後国南郷城にて坂梨孫熊丸らを討ち取った。しかし、今度は岳父である惟時が少弐氏らと結んで惟澄に敵対したため、内紛は収まらなかった。興国7年/正平元年/貞和3年(1347年)には北朝方の少弐氏・大友氏の攻撃を受けたが撃退に成功している。正平10年/文和4年(1355年)に惟時が死去し、その養子であった惟澄の長男惟村が惟時の立場を引き継いだが、一族の信望は惟澄に集まった。惟澄はその後も北朝方との戦いを優位に進め、正平16年/延文6年(1361年)には菊池武光と協力して大宰府の制圧に成功し、九州における南朝方の勢力は最盛期を迎えた。
 正平19年/貞治3年(1364年)、死に臨んだ惟澄は、これまで北朝方として対立してきた長男・惟村に大宮司を譲り、その2ヵ月後に死去した。享年55。

 南北朝時代の動乱期には養父の惟時に従って実父・惟澄と対立・抗争を繰り広げた。しかし貞治3年/正平19年(1364年)の父の死の直前に家督を譲られて当主となった。しかし征西府は惟村の相続を認めず、弟の惟武を大宮司に任じたため、兄弟間で争いが起こることになる。
  天授元年(1375年)に北朝から従三位に叙せられた。
  天授3年(1377年)に惟武が戦死すると、惟村は幕府より肥後守護に任じられたが、父の時代に煮え湯を飲まされた北朝側に疎まれて九州探題今川貞世(了俊)や渋川満頼らにその統治を妨害された。また惟武の子惟政は健在であったため、阿蘇氏の内乱も終息しなかった。
  応永13年(1406年)、死の直前に子の惟郷に家督を譲って、まもなく死去した。
  

 正長2年(1429年)、肥後守護・菊池持朝が烏帽子親となり元服する。永享3年(1431年)、父・惟郷から家督を継ぐ。益城郡を支配するが、阿蘇郡を支配した南朝方の阿蘇惟武の孫・惟兼と対立。宝徳3年(1451年)、惟兼の子・惟歳を養子とすることで両家の和平が成立し、阿蘇・益城両郡の政治的、宗教的支配者の地位を得る。同年、家督を譲った(後に復帰したという説あり)。
 寛正2年(1461年)、肥後守護・菊池為邦から八代郡内海東を宛がわれる。
 晩年は惟歳と対立し、文明16年(1484年)、馬門原の戦いで惟歳と交戦し打ち破った。翌年死去する。

阿蘇惟歳 阿蘇惟長(菊池武経) 阿蘇惟武
 生年は明瞭ではないが、文安元年(1444年)に阿蘇惟兼の子として生まれたとされる。宝徳3年(1451年)に北朝系阿蘇大宮司・阿蘇惟忠と和睦し、その養嗣子となる。応仁以前には統合された大宮司の位に就き、弟(あるいは実子)とされる惟家に位を譲った。文明16年(1484年)に菊池重朝の支援を受けて馬門原の戦いで惟忠と戦ったが敗北、没落した。

 文明12年(1480年)、嫡男として矢部で生まれる。時期不明であるが、惟長は大宮司職と家督を継いだ。
永正元年(1504年)、まだ若かった菊池能運が戦傷がもとで急逝すると、菊池重安の遺児である政隆が養嗣子となって後を継いだが、これは14歳と幼く、統治は覚束なかった。惟長はこの菊池氏の内紛に付け込み、菊池氏重臣らと謀議して政隆を廃嫡して自らが肥後守護職へなる野心を逞しくしていった。
  城氏・赤星氏・隈部氏ら菊池氏重臣22名は、永正2年(1505年)9月15日、菊池家から当主で肥後守護職の政隆を排除して惟長を新たな守護として迎える起請文を提出した。惟憲・惟長親子はこれを受けて重ねて密議し、惟長は肥後への勢力拡大を図る豊後の大友義長とも結託し、後援の内諾を得て、菊池氏の重臣達にさらに圧力を掛けた。すると、12月3日、菊池家群臣84名による連判状が届き、惟長を迎い入れる準備はすべて整えられた。
  惟長は大宮司職を弟惟豊に譲り、自らは隈府城に入ると「菊池武経」と名乗って菊池氏の家督を相続し、肥後守護職も簒奪した。
  群臣に見捨てられ孤立無援の菊池政隆は、相良長毎を頼って八代に落ち延びたが、最後は武経に追い込まれ、久米原合戦において久米安国寺で切腹して果てた。
  武経の驕暴な性格は政隆を殺すに及んで益々甚だしくなり、国政も顧みずに享楽に走り驕慢な振る舞いが目立つようになったため、重臣らは眉を顰め、武経を疎ましく思うようになった。
 永正8年(1511年)、身の危険を感じた武経は隈府城から出奔し、阿蘇氏領の矢部(上益城郡)へと戻り、「阿蘇惟長」の名に復し、萬休斎と号した。しかし大宮司職は弟の惟豊に譲っており、惟長は居候扱いであった。野心逞しい惟長は、家臣の一部と結託して弟から大宮司職を奪還しようと計画したが、事前に露見して薩摩へ逃亡した。
  永正10年(1513年)3月、島津氏の支援を受けた惟長は、薩兵を率いて惟豊を攻撃し、惟豊は日向国鞍岡に逃亡せざるを得なくなった。阿蘇氏を奪還した惟長は、嫡男阿蘇惟前を大宮司職に据えて隠居するが、実権を掌握した。
  しかし、永正14年(1517年)、甲斐親宣の支援を得た阿蘇惟豊が逆襲に転じ、阿蘇に侵攻。大敗北を喫した惟長・惟前父子は、全てを失い、僅か3名の供をつれて薩摩国へと逃亡することになった。その後、相良氏の援助等で、堅志田城を領するが、天文6年(1537年)、その堅志田城で58歳の野心に満ちた生涯を終えた。

 父惟澄と共に南朝方の武将として、少弐氏や一色氏と戦った。しかし正平19年/貞治3年(1364年)、死に臨んだ惟澄は兄惟村に阿蘇氏の家督と大宮司を譲り(惟村は北朝方として惟澄と対立していた)、惟武に惟村への服属を諭したのである。惟澄としては内紛が絶えない一族を憂慮したのであろうが、惟澄の死後、惟村の相続を認めなかった征西府懐良親王は惟武を大宮司に任じたため、阿蘇氏は再び分裂した。
  天授3年/永和3年(1377年)、水島の変を契機に攻勢に出た菊池武朝が惟武や少弐氏ら宮方勢力を結集して決戦を挑むも、大内氏・大友氏らの協力を得た九州探題今川了俊の前に大敗した(肥前蜷打の戦い)。菊池氏ら南朝方の損害は大きく、惟武もこの戦いで戦死した。
  惟武の死によって、阿蘇氏では北朝方の惟村の勢力が優勢となった。ただし、惟武の遺児惟政も征西府から大宮司に任じられ惟村と争っており、阿蘇氏の内紛はこの後も続いた。

阿蘇惟豊 阿蘇惟将 阿蘇惟種

 明応2年(1493年)、肥後国の武将で阿蘇氏16代当主・阿蘇惟憲の子として誕生。
  永正2年(1505年)、肥後国守護の菊池家を乗っ取った兄・惟長(菊池武経)に家督を譲られ当主となる。ところが永正10年(1513年)、阿蘇氏当主への復帰をもくろんだ惟長の攻撃を受け、日向へ逃れる。高千穂鞍岡の国人・甲斐親宣の支援を受け、永正14年(1517年)に阿蘇氏の本拠地・矢部を奪還する。その後も惟長とその子・惟前と抗争を繰り広げ、天文12年(1543年)に堅志田城を落として惟前を敗走させ、30年に及んだ阿蘇氏の分裂に事実上の終止符を打った。
  天文18年(1549年)、朝廷に御所修理料として1万疋を献納し、後奈良天皇から従二位に叙せられた。また天文9年(1540年)、後奈良天皇宸筆の「般若心経」を受納し、阿蘇上宮に社納したという。また、娘が大友家重臣入田親誠に正室として嫁いでいたため、二階崩れの変で主家を追われた親誠を保護したが、同事件の元凶の一人であったことを嫌って後に殺害している。
  永禄2年(1559年)、死去。墓地は、熊本県山都町下市の通潤橋や岩尾城がよく見える位置にある。

 天文10年(1541年)、阿蘇氏家臣の御船城主・御船房行が薩摩国の島津氏に通じて父阿蘇惟豊に反旗を翻した際、父の命を受け惟将は討伐軍の大将として甲斐宗運の補佐もあり、木倉原の戦いで御船方に勝利し益城郡御船城を攻略、房行を自刃に追い込んだ。
 永禄2年(1559年)、父惟豊が死去したために家督を継ぐ。この頃の阿蘇氏は、島津氏や肥前国の龍造寺氏らの圧迫を受けて苦しんでいたが、惟将は甲斐宗運を重用して豊後国の大友氏らと手を結んで、独立の維持を図ったという。その後も他の勢力と巧みに手を結びながら、独立を終生維持した。天正11年(1583年)に死去し、家督は弟の惟種が継いだ。

 天文9年(1540年)、肥後国の武将で阿蘇氏18代当主・阿蘇惟豊の子として誕生。天正11年(1583年)、兄の惟将が嗣子無くして没したため家督を継いだ。ところが、翌天正12年(1584年)に没してしまいその跡をわずか2歳の嫡男・惟光が継ぐこととなった。
 幼年の惟光は梅北一揆扇動の罪を着せられたため豊臣秀吉に殺害され、惟光の死をきっかけに戦国大名としての阿蘇氏は滅亡していったが、惟光の弟・惟善が加藤清正に救われ大宮司職に復帰し阿蘇氏の血統を残した。

阿蘇惟光

 天正10年(1582年)、阿蘇惟種の嫡男として誕生。
天正12年(1584年)、父・惟種の死により、幼年ながら当主となった。しかし、天正13年(1585年)に宿老・甲斐宗運が死去したこともあり、薩摩国の島津氏の侵攻を受け降伏、まもなく母親に連れられて弟の惟善とともに目丸山に逃亡した(目丸落ち)。
 豊臣秀吉による九州征伐が始まると保護を求め、惟光は佐々成政、次いで加藤清正にその身柄を預けられた。わずかながら領地も与えられるが、文禄2年(1593年)に梅北一揆が起こると、島津歳久や梅北国兼らとの結託を疑われ、秀吉によって花岡山にて斬首された。享年12。後に惟光の弟の惟善が清正に召し出され大宮司職に復帰した。