| UJ02:阿蘇惟泰 | 宇治角足 ー 阿蘇惟泰 ー 阿蘇惟澄 | UJ03:阿蘇惟澄 |

| リンク | 【UJ04】 |
| 阿蘇惟澄 | 阿蘇惟村 |
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阿蘇氏の庶家である恵良惟種の子として誕生。阿蘇氏8代当主・阿蘇惟時の婿養子となって家督を継いだ。 |
南北朝時代の動乱期には養父の惟時に従って実父・惟澄と対立・抗争を繰り広げた。しかし、貞治3/正平19年(1364年)の父の死の直前に家督を譲られて当主となった。しかし、征西府は惟村の相続を認めず、弟の惟武を大宮司に任じたため、兄弟間で争いが起こることになる。天授元年(1375年)に北朝から従三位に叙せられた。 |
| 阿蘇惟忠 | 阿蘇惟歳 |
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正長2年(1429年)、肥後守護・菊池持朝が烏帽子親となり元服する。永享3年(1431年)、父・惟郷から家督を継ぐ。益城郡を支配するが、阿蘇郡を支配した南朝方の阿蘇惟武の孫・惟兼と対立。宝徳3年(1451年)、惟兼の子・惟歳を養子とすることで両家の和平が成立し、阿蘇・益城両郡の政治的、宗教的支配者の地位を得る。同年、家督を譲った(後に復帰したという説あり)。 |
生年は明瞭ではないが、文安元年(1444年)に阿蘇惟兼の子として生まれたとされる。宝徳3年(1451年)に北朝系阿蘇大宮司・阿蘇惟忠と和睦し、その養嗣子となる。応仁以前には統合された大宮司の位に就き、弟(あるいは実子)とされる惟家に位を譲った。文明16年(1484年)に菊池重朝の支援を受けて馬門原の戦いで惟忠と戦ったが敗北、没落した。 |
| 阿蘇惟長(菊池武経) | 阿蘇惟武 |
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文明12年(1480年)、嫡男として矢部で生まれる。時期不明であるが、惟長は大宮司職と家督を継いだ。永正元年(1504年)、まだ若かった菊池能運が戦傷がもとで急逝すると、菊池重安の遺児である政隆が養嗣子となって後を継いだが、これは14歳と幼く、統治は覚束なかった。惟長はこの菊池氏の内紛に付け込み、菊池氏重臣らと謀議して政隆を廃嫡して自らが肥後守護職へなる野心を逞しくしていった。 |
父・惟澄と共に南朝方の武将として、少弐氏や一色氏と戦った。しかし、正平19/貞治3年(1364年)、死に臨んだ惟澄は兄・惟村に阿蘇氏の家督と大宮司を譲り(惟村は北朝方として惟澄と対立していた)、惟武に惟村への服属を諭した。惟澄としては内紛が絶えない一族を憂慮したのであろうが、惟澄の死後、惟村の相続を認めなかった征西府の懐良親王は惟武を大宮司に任じたため、阿蘇氏は再び分裂した。 |
| 阿蘇惟豊 | 阿蘇惟将 |
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明応2年(1493年)、肥後国の武将で阿蘇氏16代当主・阿蘇惟憲の子として誕生。永正2年(1505年)、肥後国守護の菊池家を乗っ取った兄・惟長(菊池武経)に家督を譲られ当主となる。ところが、永正10年(1513年)、阿蘇氏当主への復帰をもくろんだ惟長の攻撃を受け、日向へ逃れる。高千穂鞍岡の国人・甲斐親宣の支援を受け、永正14年(1517年)に阿蘇氏の本拠地・矢部を奪還する。その後も惟長とその子・惟前と抗争を繰り広げ、天文12年(1543年)に堅志田城を落として惟前を敗走させ、30年に及んだ阿蘇氏の分裂に事実上の終止符を打った。 |
天文10年(1541年)、阿蘇氏家臣の御船城主・御船房行が薩摩国の島津氏に通じて父阿蘇惟豊に反旗を翻した際、父の命を受け惟将は討伐軍の大将として甲斐宗運の補佐もあり、木倉原の戦いで御船方に勝利し益城郡御船城を攻略、房行を自刃に追い込んだ。 |
| 阿蘇惟種 | 阿蘇惟光 |
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天文9年(1540年)、肥後国の武将で阿蘇氏18代当主・阿蘇惟豊の子として誕生。天正11年(1583年)、兄の惟将が嗣子無くして没したため家督を継いだ。ところが、翌天正12年(1584年)に没してしまいその跡をわずか2歳の嫡男・惟光が継ぐこととなった。 |
天正10年(1582年)、阿蘇惟種の嫡男として誕生。天正12年(1584年)、父・惟種の死により、幼年ながら当主となった。しかし、天正13年(1585年)に宿老・甲斐宗運が死去したこともあり、薩摩国の島津氏の侵攻を受け降伏、まもなく母親に連れられて弟の惟善とともに目丸山に逃亡した(目丸落ち)。 |
| 大里惟真 | |
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大里氏の祖となる。1593年(文禄2年)、阿蘇惟光は梅北一揆に家臣が加担したとして豊臣秀吉に自害させられた。関ヶ原の戦い後に加藤清正の計らいで惟光の弟の阿蘇惟善に所領が与えられ、惟善の長子である阿蘇友貞が阿蘇家を継ぎ、惟善の次男・惟真は大里家を起こした。南北朝時代に親兄弟で血まみれで争った阿蘇家の歴史を繰り返すまいとする意向が見てとれる。 |