嵯峨源氏

G012:渡辺範綱  源 融 ― 渡辺 綱 ― 渡辺 安 ― 渡辺 満 ― 渡辺範綱 ― 渡辺吉綱 G013:渡辺吉綱

リンク
渡辺吉綱 渡辺基綱
 元和9年(1623年)から徳川秀忠に仕え、3520石の所領を与えられた。後に中央詰,御書院番士,小姓組番頭,書院番頭を歴任する。寛文元年(1661年)11月8日、大坂定番となり、河内国内に1万石を与えられて1万3000石の大名となった。幕臣として、その後も重用された。寛文8年(1668年)6月19日、58歳で死去し、跡を三男の方綱が継いだ。墓所は愛知県豊田市寺部町の守綱寺。

 武蔵野本藩第3代藩主。和泉大庭寺藩主。和泉伯太藩初代藩主。伯太藩渡辺家3代。
 延宝8年(1680年)従兄弟にあたる方綱の婿養子となり家督を継承。元禄11年(1698年)、大庭寺藩主となる。享保12年(1727年)4月18日、伯太藩に陣屋を移したため、伯太藩の初代藩主となった。玉造口定番、大坂定番などを努めたが、大坂定番在任中の享保13年(1728年)7月19日に64歳で死去し、後を長男の登綱が継いだ。
 性格は温厚で、領地に善政を布いていたことから、「善将」と称された名君である。

渡辺潔綱 渡辺章綱
 文政9年(1826年)11月15日、将軍徳川家斉に拝謁した。文政11年(1828年)11月7日、父則綱の隠居により、家督を相続した。同年12月16日、従五位下備中守に叙任した。後に丹後守に改めた。日光祭祀奉行を務めた。弘化4年(1847年)5月23日、隠居し長男章綱に家督を譲った。隠居後、松月と称した。明治3年(1870年)4月4日、明治天皇に拝謁した。明治9年(1876年)に63歳で死去した。  弘化3年(1846年)9月1日、将軍徳川家慶に拝謁した。弘化4年(1847年)5月23日、父潔綱の隠居により、家督を相続した。同年12月16日、従五位下備中守に叙任した。後に丹後守に改めた。安政3年(1856年)2月8日、大坂加番を命じられた。日光祭祀奉行を務めた。元治元年(1864年)6月25日、大和橋などの警備を命じられた。慶応4年(1868年)3月16日、上洛した。明治2年(1869年)の版籍奉還で藩知事となり、明治4年(1871年)7月15日の廃藩置県で免官となる。明治4年9月28日、東京に移る。明治17年、子爵となった。明治27年、62歳で死去した。