| F002:藤原武智麻呂 | 藤原武智麻呂 ― 藤原乙麻呂 | F006:藤原乙麻呂 |

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| 藤原乙麻呂 | 藤原是公 |
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天平9年(737年)、父・武智麻呂ら藤原四兄弟の死後まもなく、従兄弟の北家・永手,式家・広嗣と共に従六位上から従五位下に叙せられる。兵部少・大輔を経て、天平19年(747年)従五位上に叙せられる。 |
牛屋大臣と称された。天平宝字5年(761年)正六位上から従五位下に叙される。天平宝字8年(764年)藤原仲麻呂の乱終結後、播磨守,山背守を歴任する。称徳朝では俄に昇進し、天平神護元年(765年)従五位上・左衛士督に叙任、翌天平神護2年(766年)には従四位上まで昇叙された。また、天平神護元年(765年)に黒麻呂から是公に改名している。 |
| 藤原雄友 | 藤原吉子 |
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延暦2年(783年)従五位下・美作守に叙任すると、延暦年間の前半に急速に昇進し、延暦9年(790年)38歳にして参議に任ぜられ公卿に列す。のち大蔵卿,近衛大将,大宰権帥と要職を歴任し、延暦23年(804年)正三位に至る。 |
783年(延暦2年)に伊予親王を生む。807年(大同2年)藤原北家の出身である藤原宗成によって謀反の嫌疑がかけられ、伊予親王とともに川原寺(弘福寺)に幽閉されて飲食を絶たれた(伊予親王の変)。母子は自害したが、その後、祟りを怖れた朝廷によって復位・贈位がなされた。 |