<藤原氏>南家

F008:入江維清  藤原鎌足 ー 藤原武智麻呂 ー 藤原乙麻呂 ー 藤原為憲 ー 入江維清 ー 久野宗仲 F026:久野宗仲

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久野宗能 久野宗成

 初めは駿河国の今川氏に仕え、永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いにおいて兄の元宗が戦死したため家督を継ぎ、遠江国久野城主となる。永禄11年(1568年)に三河国の徳川氏に久野城を攻められると、徳川家康の家臣・高力清長の説得によって降伏した。だが、叔父ら久野一族は主君・今川氏真への忠義から家康謀殺を計画するものの宗能が肯ぜずに内紛となるが、家康の救援で鎮圧した。その後、甲斐国の武田信玄の西上作戦でも久野城を包囲されるが、城を堅守した。
 その後も高天神城攻めなどで功績をあげ、天正18年(1590年)に徳川家康が関東地方に移封になると、下総佐倉で1万3千石を与えられるが、間もなく嫡子の宗朝に家督を譲った(ただし、佐倉藩の領主変遷に関しては諸説ある)。ところが、慶長元年(1596年)になって宗朝が私闘の末に自害すると改易処分を受け、宗能には別に1,000石を与えられる。関ヶ原の戦い後に改めて旧領の遠江久野に戻されて8千500石を与えられた。慶長14年(1609年)に83歳で死去。家督は孫の久野宗成(宗朝の子)が継承したが、後に紀州藩の御附家老になっている。

 紀州藩田丸城代家老久野家初代当主。官位は従五位下丹波守。慶長元年(1596年)父・宗朝が徳川秀忠上洛の供をした際、遺恨により三宅弥次兵衛を殺害し自害したため改易となり、本多忠勝に養われる。
 慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いに出陣し、退却する島津勢を本多忠朝と共に追撃し戦功を挙げる。慶長14年(1609年)祖父・宗能の死去により家督相続し、遠江久野城主となる。慶長16年(1611年)従五位下丹波守に任官。同年、主君徳川家康の10男の駿河駿府城主・徳川頼宣付き家臣となる。
 慶長19年(1614年)の大坂冬の陣、慶長20年(1615年)大坂夏の陣に出陣。元和5年(1619年)頼宣が紀州に転封となると、1万石を与えられ、熊野地域の押えとして田丸城代となる。

 

久野純固

 紀州藩田丸城代家老久野家8代当主。文化12年(1815年)紀州藩田丸城代・久野昌純の子として生まれる。文政6年(1823年)父の死去により家督相続。文政9年(1826年)元服。天保6年(1835年)従五位下丹波守に叙任。安政元年(1854年)紀州沖の異国船来航を受けて、海防のために翌年田丸領度会郡五ヶ所浦,礫浦に砲台を建設する。万延元年(1860年)家老水野忠央失脚に連座して、藩政から遠のくも、文久3年(1863年)加判列に加えられ藩執政となる。慶応3年(1867年)藩政改革において対立する田中善蔵が殺害され、明治4年(1871年)に行われた実行犯の取調べで関与が疑われたが、証拠不十分で処罰されることはなかった。明治元年(1868年)隠居。明治6年(1873年)7月26日死去。
 家臣の森維明(森逸平)を江川英龍,佐久間象山に入門させて西洋式砲術を学ばせ、領内に砲術練習場を設立した。また、俳句,和歌,漢詩に巧みな文人でもあり、漢詩集「深翠園」,「憐霞楼集」等を著した。