<藤原氏>南家

F028:二階堂行政

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F029:二階堂行綱

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二階堂照行 二階堂盛義

 名は行秀,輝行とも伝わる(一般には輝行の名で知られるが、古文書には輝行と署名したものは認められない)。
 須賀川城を居城として、岩瀬郡(福島県)を支配した。伊達稙宗の娘婿であり、天文の乱の際には稙宗側に味方した。照行の代には「わずかに五十余郷を領す」とあり衰微を思わせ、永禄2年(1559年)には田村氏に今泉城を奪われた。以後、何度も軍勢を出して今泉城奪還を試みるが、目的を果たせぬまま1564年に没し、跡は嫡男の盛義が継いだ。

 須賀川城を居城として岩瀬郡を支配していた。永禄年間(1558年~70年)になると会津四郡(耶麻郡・河沼郡・大沼郡・会津郡)を支配する蘆名氏、田村郡を支配する田村氏と所領をめぐって度々戦いを繰り広げたが、永禄9年(1566年)2月蘆名盛氏,盛興父子が松山,横田両城を攻め落として横田城主を生け捕りにすると、盛義は嫡男(のちの盛隆)を人質として差し出すことで盛氏と和睦した。それ以後は蘆名氏の旗下に入った。
 天正2年(1574年)6月、盛氏の嫡男・蘆名盛興が早世したため、人質であった盛隆が盛氏の後継者として蘆名氏を継いだ。二階堂氏も蘆名氏の力を背景にして田村氏との戦いに勝利し、勢力を拡大した。
 しかし盛義が天正9年(1581年)8月に亡くなり(38歳だったとも言われる)、盛隆も天正12年(1584年)10月に暗殺されると、再び二階堂氏は衰退して天正17年(1589年)10月26日に伊達政宗によって滅ぼされた。

二階堂行親

 父の死後、蘆名氏の養子になった兄に代わって二階堂氏当主となるが、13歳で早世した。1585年に16歳で没とする文献もある。
 行親死後は盛義の未亡人阿南の方が須賀川城主となり、家老の須田盛秀が実質的な城代となって、天正17年(1589年)に伊達政宗に攻め滅ぼされるまで領内を統治した。
 一説によると盛義の次男照義(行親と同一人物かは不明)に義賢という弟がいて、後に佐竹氏に仕えたといわれている。