<藤原氏>南家

F033:二階堂行義

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狩野正信 狩野元信(永仙)

 室町時代の絵師で、狩野派の祖である。古記録から、正信は寛正4年(1463年)には京で絵師として活動していたことが明らかで、この時すでに幕府御用絵師の地位にあったと思われる。没年は享禄3年(1530年)とされ、数え年97歳で没したことになる。
 正信の出自については、伊豆の人狩野宗茂の末裔との伝承があり、江戸時代作成の家譜・画伝類では駿河今川氏の家臣・狩野出羽二郎景信という人物を正信の父としている。しかし、信憑性の高い資料に景信の名が出ていないことから、一つの伝承や逸話の域を出る物ではない。また、①正信やその子・元信の縁者が下野方面に見られること、②栃木県足利市の長林寺に正信の初期作品である『観瀑図』が残ること、③前記『観瀑図』に「長尾景長公寄進」との外題があることなどから、狩野正信は下野方面の出身で、足利長尾氏と何らかの関係があったとする説もある。近年は、江戸時代の法華宗関係史料『本化別頭仏祖統紀』に上総狩野家の叡昌の孫行蓮と正信は同一人物とあることから、上総出身説が有力である。叡昌の娘・理哲尼は長尾実景に嫁いでおり、長林寺は足利長尾氏の菩提寺であることから、下野説の論拠とも矛盾はない。
 京では幕府御用絵師の宗湛(小栗宗湛)に師事したものと思われる。また、『尋尊大僧正記』には、「土佐弟子」と記されており土佐派との繋がりを想像させるが、大和絵を描いた遺品、または描いたとされる史料は皆無であることから、土佐家との何らかの関係を持ちつつも、正信が傍流的な立場であったことを示唆している。正信に関する最初の記録は、季瓊真蘂が筆録した『蔭凉軒日録』の寛正4年(1463年)7月相国寺雲頂院の昭堂に十六羅漢を描いたという記事である。以後20年間記録は途絶えるが、文明15年(1483年)には足利義政の造営した東山山荘の障壁画を担当している。1496年には日野富子の肖像を描いた。
 現存する作品中では、中国の故事を題材にした『周茂叔愛蓮図』が、正信自身のみならず、後の狩野派の進むべき方向をも決定づけた代表作と見なされている。他に九州国立博物館蔵の『山水図』双幅、個人蔵の水墨の『山水図』、個人蔵の『崖下布袋図』などが古来著名である。大徳寺真珠庵の『竹石白鶴図』(六曲屏風1隻)も印章等はないが、古くから正信作とされている。
 画風は、現存作品から見る限りでは漢画(大和絵に対して中国風の画を指す)系の水墨画法によるものが多いが、なかで『周茂叔愛蓮図』は画面上半分に余白を大きく取り、近景の柳の大木の緑が印象的な平明な画面で、他の作品とはやや異質な感がある。また『文殊菩薩図』のような仏画の遺品もあり、職業絵師として多様な画題、画風をこなしていたものと思われる。

 狩野派2代目。京都出身。幼名は四郎二郎、大炊助,越前守、さらに法眼に叙せられ、後世「古法眼」と通称された。
 父・正信の画風を継承するとともに、漢画の画法を整理しつつ大和絵の技法を取り入れ(土佐光信の娘千代を妻にしたとも伝えられる)、狩野派の画風の大成し、近世における狩野派繁栄の基礎を築いた。
 絵師として製作年が明らかな最初の作例は、永正4年(1507年)細川澄元の出陣影の制作である。記録上の初見は永正10年(1513年)で、細川高国の命で『鞍馬寺縁起絵』を制作している。現存する大徳寺大仙院の障壁画は、同院創建時の永正10年(1513年)の制作とするのが通説であったが、大仙院方丈の改築が行われた天文4年(1535年)の作とする見方もある。元信は60歳代にあたる天文年間に以下のような大きな仕事に携わっている。まず、天文8年(1539年)から約15年間、石山本願寺の障壁画制作に携わった。この間、天文12年(1543年)には内裏小御所、同じ頃には妙心寺霊雲院の障壁画を描き、天文14年(1545年)頃に法眼を与えられている。
こうした権力者の需要に応える一方で、町衆には絵付けした扇を積極的に販売し、当時の扇座の中心人物であった。
 元信の作品は、漢画系の水墨画法を基礎としつつ、大和絵系の土佐派の様式を取り入れ、書院造建築の装飾にふさわしい日本的な障壁画様式を確立した点に特色がある。
 新たな顧客からの注文の増加と多様化に対応するため、元信は新たな画風や制作体制の必要にせまられた。当時の絵師は牧谿様、夏珪様など宋や元時代の中国画人の作風で描くことを求められたが、日本にある彼らの作品は小品が多く障壁画や屏風絵のような大画面の構成に不向きであった。そこで元信は、彼らの筆様の整理・統合し、書体になぞらえた「真」「行」「草」の3種類の画体を確立、これを弟子たちに学ばせて、幅広い注文主の要求に応えた。多種多様な絵を大量制作できるこの方法は、後の狩野派の制作体制を決定づける事になる。なお、真体は馬遠と夏珪、行体は牧谿、草体は玉澗の画風を元としている。そのため現在でも大量の「元信印」を持つ作品が残っているが、それが却って元信自身の作品を見分けるのを困難にしている面もある。
 また、大和絵系絵師の専門領域であった絵巻物や金碧画を積極的に取り込み、上記の漢画の筆法や堅固な画面構成を取り入れ、華麗さと力強さが共存した和漢融合の様式を生み出した。
 職業絵師としてさまざまなジャンルの作品を残しており、『飯尾宗祇像』のような肖像画、兵庫・賀茂神社の『神馬図額』(絵馬)のような作品も現存している。

狩野直信(松栄) 狩野長信

 松栄の兄2人が早世したため狩野家を継いだ。天文期には元信に従って、石山本願寺の障壁画制作に参加し、門主・証如より酒杯を賜っている。おそらく、当時最大の顧客であった証如と引き合わせるための元信の配慮であろう。続いて元亀年間は、宮廷や公家と交渉していた記録が残っており、後の狩野派飛躍のために目立たぬ努力をしていたのが窺える。
 永禄9年(1566年)永徳と共に描いた大徳寺聚光院の障壁画が有名。この2年後には大友宗麟の招きで旅に出ており、途中の厳島で年を越し絵馬を奉納した。天正に入ると永徳の活躍が目立ち、松栄は動静の詳細をたどれなくなるが、おそらく永徳のサポートに徹していたのであろう。永徳の死(1590年)の2年後、天正20年(1592年)に74歳で逝去。画才では、時代様式を創り出した父・元信や子の永徳に及ばなかったが、元信様式を忠実に受け継ぎ、狩野派の伝統的な祖法として定着させた。その画風は永徳のような迫力に欠け、鑑賞者にやや地味な印象をあたえるけれども、筆致は柔軟で温かみのある作品を残した。

 門人に「豊国祭礼図屏風」や「南蛮図屏風」で知られ、根岸御行松家初代の狩野内膳、築地小田原町家と芝金杉片町家の祖となる狩野宗心などがいる。

 江戸幕府御用絵師の一つ表絵師・御徒町狩野家などの祖。号は休伯。桃山時代の風俗画の傑作『花下遊楽図屏風』の作者として知られる。兄に狩野永徳,宗秀など。松栄晩年に生まれたため、血縁上は甥に当たる狩野光信,孝信より年下である。幼少の頃から父・松栄や兄・永徳から絵を習ったと推測される。両者が相次いで亡くなると次兄・宗秀についたと思われるが、宗秀も慶長6年(1601年)に没すると、光信に従いその影響を受ける。更に、長谷川等伯ら長谷川派からの感化を指摘する意見もある。
 慶長年間(1596~1615年)京都で徳川家康に拝謁、次いで駿府に下り、その御用絵師となった。慶長10年(1605年)頃、徳川秀忠と共に江戸へ赴き、14人扶持を受ける。慶長13年(1608年)光信が亡くなると、狩野探幽の側で狩野派一門の長老格として後見した。寛永2年(1625年)法橋に叙される。墓所は江戸谷中の信行寺。
 主な作品は下記のとおりであるが、二条城二の丸御殿白書院障壁画を、従来は狩野興以筆とされたが、近年は画風や狩野派内の序列から長信とする説が有力である。また、作者不明の『相応寺屏風』、『伝本多平八郎姿絵屏風』(共に徳川美術館蔵、重文)、『彦根屏風』(彦根城博物館蔵、国宝)を『花下遊楽図屏風』と比較し、狩野派正系に連なる高い画技や表現力、全て遊郭が主題、毛髪への異常なほど執着的な描写、道具類の破錠なく細部に及ぶ精緻さ、顔貌が酷似する横向きのおかっぱ髪の禿が全てに登場する、などの理由から長信筆とする説がある。

狩野秀頼

 現在は「ひでより」と呼ばれるが、当時は「すえより」または「すへより」と呼んだようだ。近世初期風俗画の最も早い時期の名品「高雄観楓図屏風」の作者として知られる。

 「秀頼」印を捺す作品が幾つか残っているが、その人物像については謎が多い。狩野元信の次男「乗信秀頼」のことで、元信に先立って死去したという説と、元信の孫で乗真の子「真笑秀政」と同一人物とする説がある。どちらが正しいか決めがたいが、「神馬図額」には、永禄12年(1569年)の年紀があり、元信没後も活躍したことがわかる。この図額には「狩野治部少輔」と署名しているが、これと同年狩野松栄が厳島神社に奉納した絵馬で名乗った民部丞を官位相当表で比べると、前者が従五位下、後者が従六位下または正六位下で松栄より高位なことから、近年、元信の次男とし、元信の死後も生存していたとする説が強まっている。

 1534年(天文3年)東寺絵所で15世紀末から代々絵仏師を務めていた本郷家に養子となり、その職務を継いだ。しかし、1546年(天文15年)12月に未だ幼少の息子・千千代丸に早くも絵仏師職を譲っている。こうした不可解な行動には、父・元信の意向が強く現れていると考えられる。秀頼が養子入りした当時、狩野家は元信をはじめ、元信の弟・之信、元信長男・宗信、元信三・松栄と男子に不足なく、秀頼を養子に出す余裕もあった。ところが、之信と後継者の宗信を相次いで亡くて一門は若年の松栄のみ残った上に、元信には大坂・石山本願寺における障壁画制作という大仕事が控えていた。そこで元信は、自身や未だ経験不足の松栄を補佐するために、千千代丸に家督を譲って秀頼を隠居とすることで、狩野本家に呼び戻そうとしたと考えられる。しかし、こうした狩野家本位のこの行動には本郷家や東寺側から反発があったらしく、紆余曲折あったのち、結局、千千代丸は東寺絵仏師を継げなかった。

 『言継卿記』天正4年8月17日条に「狩野治部入道」が座敷の絵を描いたとあり、この頃には剃髪していたようだ。「本朝画印」には扇絵が多く、画風は元信に似ていたという。『画工譜略』の「狩野画家之系図」では、信正秀頼の行年を61歳としている。