<藤原氏>南家

F062: 藤原黒麻呂  藤原鎌足 ー 藤原武智麻呂 ー 藤原巨勢麻呂 ー 藤原黒麻呂 ー 藤原懐忠 F063:藤原懐忠

リンク F064
藤原懐忠 藤原重尹

 村上朝の天暦4年(950年)従五位下に叙爵。天暦8年(954年)阿波権守に任ぜられる。天徳2年(958年)同母兄の克忠が没してまもなく侍従に任ぜられると、のち左衛門佐,左近衛少将,右近衛少将と武官を務める一方、備中権介,伊予権介,讃岐権守と地方官を兼任した。
 円融朝の天禄3年(972年)従四位下・右近衛中将に叙任される。貞元3年(978年)権左中弁に転じると、天元4年(981年)左中弁、寛和2年(986年)右大弁、永延元年(987年)左大弁と円融朝後半から一条朝初頭にかけて一転して弁官を歴任し、永延2年(988年)蔵人頭を経て、永祚元年(989年)従三位・参議に叙任されて公卿に列した。
 議政官として左大弁,勘解由長官を兼帯し、正暦4年(993年)正三位に叙せられる。正暦5年(994年)権中納言、長徳元年(995年)中納言、長徳3年(997年)権大納言、長保3年(1001年)大納言と一条朝で順調に昇進し、長保5年(1003年)従二位に至る。一条朝末の寛弘6年(1009年)代納言を致仕した。
 後一条朝の寛仁4年(1020年)11月1日薨去。享年86。

 一条朝の長徳5年(999年)正月に従五位下・侍従に叙任され、閏3月に右兵衛佐に任ぜられる。
 長保3年(1001年)左近衛権少将に遷ると、寛弘6年(1009年)右近衛中将、寛弘9年(1012年)左近衛権中将、寛仁4年(1020年)左近衛中将と、一条・三条・後一条の三朝20年以上に亘って近衛次将を務め、この間に長保5年(1003年)から寛仁2年(1018年)までに従五位上から正四位下へと昇進を続けた。
 治安3年(1023年)右大弁として弁官に転じると、万寿3年(1026年)蔵人頭(頭弁)を経て、長元2年(1029年)参議兼左大弁に任ぜられ公卿に列した。
 議政官の傍らで、左大弁,勘解由長官,修理大夫を兼帯し、長元5年(1032年)従三位に叙せられる。後朱雀朝の長暦2年(1038年)正月に正三位に昇叙されると、6月には上﨟の参議4名(藤原兼頼・源隆国・藤原公成・藤原兼経)を超えて権中納言に昇任された。長久3年(1042年)権中納言を辞し、従二位・大宰権帥に叙任されて九州へ下向する。しかし、寛徳3年(1046年)大宰府の官人や九州各国の国司から訴えられて大宰権帥を罷免された。永承6年(1051年)3月7日中風により薨去。享年68。

藤原公経 藤原輔尹

 若い頃は河内国の古寺の沙門で、公泰と号したという。のち還俗して叔父の権中納言・重尹の養子となり、文章生に補せられる。後朱雀朝の長久3年(1042年)勘解由判官に任官すると、式部少丞を経て、後冷泉朝の天喜2年(1054年)巡爵により従五位下・加賀権守に叙任されるが、同年中に中務権大輔として京官に遷った。康平2年(1059年)中務権大輔の功労により従五位上に陞叙。
 後三条朝初頭の延久元年(1069年)少納言に任ぜられると、白河朝でも引き続き少納言を務めながら、延久5年(1073年)に正五位下、承保2年(1075年)には従四位下と順調に昇進した。応徳2年(1085年)主殿頭に任ぜられると、これを終生務め上げる一方、白河院政期に入ると寛治3年(1089年)越中介、嘉保3年(1096年)河内守と地方官も兼ねている。永長2年(1097年)従四位上に至った。承徳3年(1099年)7月23日卒去。
 生まれつき世事に染まらず、吟詠をよくした。また、書や和歌にも通じた。古寺にいた際は戒行を欠くことはなく、修錬を怠ることは決してできなかったという。和歌は1首ながら、『後拾遺和歌集』に残っている。また、寛治元年(1087年)に行われた御讀書始では点図を書くなど、文の清書なども務めている。

 『枕草子』は輔尹の母が尾張安居兼時という者の娘であることを注記しているので、輔尹の祖父が兼時だとわかる。宮中の御神楽で人長を務めた兼時は、『紫式部日記』に登場する舞の名手であった。と同時に、『今昔物語集』にも幾度か登場する。近衛府の舎人仲間と稲荷詣でに行き、参詣に来た女をからかったり、徴税に応じない国司の邸に乗り込んで、出された料理で腹を下したり、右近馬場の競馬で下野敦行に負けるなど、概して武人肌の、よく言えば豪放磊落な、悪く言えば粗野な人だったらしい。
 輔尹はそんな兼時の血を引いて、粗暴だったのかもしれない。当時の婚姻形態からしても、母方の祖父と同居しており、影響を受けたとも考えられる。兼時は天元5(982)年4月の競馬に出場して相手に勝っていることからも年老いてなお、かなり達者だったことが明らかである。
 ただ、輔尹の父は興方という受領階級の人で従五位上、尾張守であったが、輔尹を大納言懐忠の養子にしている(正家という殿上人の猶子という説もある)。興方としても、懐忠のほうが身分的にも上で、子の将来のためにもなると考えたのだろう。『尊卑分脈』では輔尹の母が重尹(懐忠の実子で輔尹には弟)と同じ尹忠の娘となっているが、これは養母であると考えれば無理がない。