<藤原氏>南家

F070:藤原貞嗣  藤原鎌足 ー 藤原武智麻呂 ー 藤原巨勢麻呂 ー 藤原貞嗣 ー 藤原道明 F071:藤原道明

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藤原道明 慶円
 延喜9年(909年)参議。没時は正三位,大納言兼民部卿。『延喜式』の編集に加わった。17年(917年)、橘澄清とともに山城深草に道澄寺を創建。当時の梵鐘が残っている(国宝)。延喜20年(920年)6月17日死去。65歳。   幼くして延暦寺に入り、喜慶に師事する。天暦8年(954年)に得度受戒を受ける。康保元年9月15日(964年)の勧学会に参加、長徳元年(995年)に内供としての功績が評価されて権律師に任ぜられ、長保2年(1000年)に権少僧都、2年後に大僧都に任ぜられる。寛弘8年(1011年)権僧正に任じられ、長和2年(1013年)1月14日に僧正、12月26日に大僧正に任じられる。翌長和3年(1014年)12月26日に第24代天台座主に補される。また、法性寺座主・普門院別当なども務めた。寛仁3年(1019年)8月13日に病気を理由に大僧正を辞任、9月3日に没する。 甥とされる藤原実資の日記『小右記』や藤原行成の日記『権記』にも慶円の記事がみられる。
藤原朝子
 紀伊局の名で知られる。初め、鳥羽天皇の妃・待賢門院に仕え、父が紀伊守であったことから紀伊局と呼ばれるようになった。後に同じく待賢門院に仕えていた藤原通憲(信西)と結婚した。その後、待賢門院の子である雅仁親王(後白河天皇)の乳母を務めた。保延元年(1135年)には通憲との間に藤原成範を生んだ。雅仁親王が後白河天皇として即位すると重んじられて、保元2年(1157年)には典侍に任命され、2年後には従二位に叙せられたため、「紀伊二位」とも呼ばれた。