<藤原氏>北家 冬嗣裔諸流

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藤原良世 藤原邦基

 承和8年(841年)内舎人に任官、仁明朝では左馬権少/大允・右兵衛大尉を歴任する。
 嘉祥3年(850年)文徳天皇の即位に伴い蔵人に任ぜられ、右衛門少尉次いで同大尉を兼ね、翌仁寿元年(851年)に従五位下に叙爵。こののち、文徳朝では兵衛佐,衛門佐を歴任する。兄・藤原良房が太政大臣に任ぜられた斉衡4年(857年)に従五位上に叙せられると、天安2年(858年)清和天皇の即位に前後して正五位下・右近衛少将、貞観2年(860年)従四位下、貞観6年(864年)従四位上・蔵人頭、貞観10年(868年)正四位下と以降は順調に昇進し、貞観12年(870年)参議に任ぜられ公卿に列した。またこの間の貞観2年(860年)には姉の皇太后・藤原順子の大夫に任ぜられた。
 良世が五位から公卿に昇進するまでの官人としての立身時期は、ちょうど藤原良房が権勢を得ていた時期と重なっており、これと争うことなく従ったことで順調な昇進を果たしている。
 貞観14年(872年)兄の良房が薨去するが、同年従三位・中納言、貞観19年(877年)正三位、元慶6年(882年)大納言、寛平3年(891年)右大臣、寛平5年(893年)従二位と、清和,陽成,光孝,宇多朝にかけても順調に昇進を続けた。寛平7年(895年)左大臣・源融の薨去により太政官の首班を占め、翌寛平8年(896年)には左大臣に任ぜられるが、同年致仕し致仕大臣と呼ばれた。
 醍醐朝の昌泰3年(900年)長く皇太后宮大夫・太皇太后宮大夫として仕えた太皇太后・藤原明子の崩御に遅れること約半年の11月18日薨去。没後、従一位の贈位を受けた。一説に藤氏長者の初代にも擬せられ、長者として『興福寺縁起』を撰したことでも知られる。

 宇多天皇の治世では文章生,弾正少忠,兵部少丞を務める。醍醐天皇が即位すると、昌泰元年(898年)従五位下に叙爵。能登守,刑部大輔,因幡守,武蔵守を経て、延喜7年(907年)正月に従五位上に叙される。その後、左少弁を経て延喜15年(915年)右中弁,木工頭に任じられる。春宮亮,左中弁を経、延喜17年(917年)従四位下に叙される。
 延喜21年(921年)参議に任じられ公卿に列す。翌年従四位上・越前権守、延長元年(923年)に備前権守,勘解由長官を兼ね、延長6年(928年)右大弁から左大弁に転ずる。さらに翌年には正四位下・讃岐権守を叙任。民部卿を経て、延長8年(930年)朱雀天皇の即位に伴って従三位・中納言に叙任されるが、承平2年(932年)薨去。享年58。

藤原恒佐 藤原有相

  左近衛将監・六位蔵人を経て、寛平8年(896年)従五位下に叙爵。
 醍醐朝に入り、右馬助,右兵衛佐,左近衛少将と武官を歴任する一方、延喜10年(910年)五位蔵人、延喜11年(911年)春宮亮と醍醐天皇と皇太子・保明親王に身近に仕える。のち、延喜12年(912年)従四位下・蔵人頭、延喜13年(913年)右近権中将、延喜14年(914年)左近衛中将と、武官を務めながら順調に昇進し、延喜15年(915年)参議に任じられ公卿に列す。これは、文章生から文官を歴任した6歳年上の兄・邦基より6年早い公卿昇格であった。
 その後も議政官として左近衛中将,衛門督と武官を務める一方、延喜17年(917年)従四位上、延喜23年(923年)従三位・権中納言、延長5年(927年)中納言、承平2年(932年)正三位、承平3年(933年)大納言と順調に昇進する。承平6年(936年)には上席の大納言・藤原保忠の薨去により、太政官において藤原北家嫡流の忠平・仲平兄弟に次ぐ席次を占め、同年右近衛大将を兼ね、翌承平7年(937年)には右大臣に任ぜられた。承平8年(938年)5月5日薨去。享年60。没後まもなく正二位の贈位を受けた。

  醍醐天皇の時代では、延長6年(928年)に左兵衛少尉、翌年に左近将監、さらにその翌年に蔵人となる。朱雀朝に入ると、承平2年(932年)従五位下・近江少掾を兼ね、翌年侍従、承平5年(935年)に摂津守を兼ねる。承平8年(938年)に従五位上に叙され、天慶3年(940年)に右衛門権佐,右少弁次いで左少弁。天慶7年(944年)に春宮大進、翌年に正五位下・右中弁となる。
 村上朝では、天慶9年(946年)に従四位下に叙され、播磨守を兼ねる。天暦2年(948年)内蔵頭・蔵人頭となり、天暦4年(950年)春宮権亮、翌天暦5年(951年)に従四位上に叙される。同年右大弁を経て、天暦8年(954年)に左大弁に転じる。天暦9年(955年)7月24日に参議に任じられ公卿に列す。その後も天暦10年(956年)讃岐権守、翌天徳元年(957年)に播磨権守を兼ね、天徳2年(958年)正四位下に叙されるが翌年薨去。享年52。