<藤原氏>北家 長良流

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藤原隆信 藤原信実

 母の再婚相手である藤原俊成に育てられる。若い頃は歌人として名を上げ、二条天皇や後鳥羽天皇に仕え、寂蓮と並び評された。しかし、最も後世に語り継がれている功績としては画家としての活動である。隆信は似絵(肖像画)の名手で、承安3年(1173年)『玉葉』九月九日条には最勝光院障子絵において、隆信が顔だけ描き、他は常盤光長が担当したことが記されている。反面、和歌の評価は次第に下落し、歌も新風を志す新古今歌人たちのそれとは対照的に、平凡な作風に陥っていった。神護寺所蔵の国宝『神護寺三像』は『神護寺略記』に隆信の作と伝えられが、近年この説はほぼ否定されている。政治的活動は上野介,越前守,若狭守を歴任。建仁2年(1202年)出家。浄土宗の開祖・法然に帰依する。
 物語『うきなみ』や歴史物語『弥世継』を書いたとされるが、いずれも現存しない。隆信の私家集は、寿永元年(1182年)夏頃に成立した『寿永百首家集』と元久元年(1204年)頃成立したものがある。隆信が俊成の訓育を受けたことは、五条三位入道俊成と隆信の交わした元久本『隆信集』の旋頭歌の部に見える。

 父・隆信と同様に絵画・和歌に秀で、大阪水無瀬神宮に伝わる後鳥羽院像(国宝)は信実の作と考えられている。短い線を何本も重ねて、主体の面影を捉える技法が特色である。大蔵集古館所蔵の「随身庭騎絵巻」や佐竹本「三十六歌仙絵巻」などの作品は信実とその家系に連なる画家たちによって共同制作されたものと推測されている。信実の家系は八条家として室町時代中期頃まで続き、いわゆる似絵の家系として知られる。
 勅撰歌人として『新勅撰和歌集』(10首)以下の勅撰和歌集に122首が入集。自撰歌集に『藤原信実朝臣集』がある。また、信実が編纂し、延応2年(1240年)前後に成立した説話集として『今物語』がある。

藤原為信 藻璧門院少将
 鎌倉中期の歌人で似絵絵師。正安2(1300)年刑部卿,嘉元2(1304)年従三位,4年に出家,法名寂融,法性寺と号した。歌人として著名で『為信集』がある。40歳を過ぎてから鎌倉に下り、冷泉為相と親交を持ったことがわかるが、帰洛の年は不詳。また曾祖父・信実,祖父・為継,父・伊信と続く似絵の家系を継ぎ、文永11(1274)年に「加茂祭絵巻」を描いた記録がある。「天皇摂関大臣影図巻」(宮内庁蔵)の奥書には天皇巻の鳥羽から後二条までを為信の筆とし、法住寺陵安置の後白河法皇彫像胎内に納入された「後白河法皇白描画像」にも為信筆の銘があるが、書き直しがあり確定できない。

 鎌倉時代初期に活躍した女流歌人。新三十六歌仙と女房三十六歌仙の一人。
 朝を告げる雄鶏の鳴き声に一夜を共にした男女のしばしの別れのつらさを代弁させた「己が音」の恋歌が絶賛されたことでその名を馳せた。この代表作によって彼女は「己が音の少将」の異名を取るにいたった。
 寛喜元年(1229年)頃から後堀河天皇の女御・九条竴子の女房として出仕する。竴子はその翌年中宮に冊立され、翌寛喜3年(1231年)に第一皇子・秀仁親王を出産、翌貞永元年には早くもこの秀仁が即位(四条天皇)して国母となる。翌年4月に院号宣下あって藻璧門院と号すが、同年9月に皇子を難産の末に死産した上、自身も産後の肥立ちが悪く後を追うように落命してしまう。この女院が崩じた後に少将は出家し、旧法性寺跡に移り住んでその余生を過ごした。
 藻璧門院少将は『新勅撰和歌集』以後の十三代集や歌合の記録にその作品を残している。死没年は不詳ながら、建治2年(1276年)の『現存卅六人詩歌』にその名が挙げられていることから、その時点ではまだ存命していたことが確認でき、したがって仮に竴子に女房として出仕したのが17歳の時だったとしても、少将は少なくとも還暦を過ぎる年齢にはなっていたことがわかる。

後深草院弁内侍 後深草院少将内侍
 1243年(寛元元年)8月、後嵯峨天皇の皇子・久仁親王は生後2ヶ月で東宮となるが、その3ヶ月後には既に春宮弁と名乗って出仕している。1246年寛元4年、東宮の即位に伴い内侍となり、妹少将内侍とともに幼帝に仕える。1259年(正元元年)の譲位とともに職を退いた。『弁内侍日記』にはその前半期にあたる1246年(寛元4年)1月から1252年(建長4年)10月までの記事がある。『続後撰和歌集』以降の勅撰集、歌合等に作品を残している。従二位法性寺雅平との間に女子(新陽明門院中納言、参議実永室)をもうけ、1265年(文永2年)妹の死に際して出家した。晩年は叡山の麓の仰木の山里にて生涯を送った。1276年(建治2年)の『現存三十六人詩歌』に、姉の藻璧門院少将と共に名前を挙げられており、かつ姉の追悼のための和歌を依頼しており、姉より長く生きたことがわかる。実材母として知られる女性との間で、1277年(建治3年)頃の歌の贈答が確認できる。  姉の弁内侍と共に後深草天皇の幼少期から出仕、その在位期間を中心に歌壇で活躍した。また、連歌を得意とした点も弁内侍と共通する。『続後撰和歌集』以降の勅撰集、歌合等の他、『弁内侍日記』『菟玖波集』にも作品を残している。特に『弁内侍日記』は、事実上、弁内侍と少将内侍の姉妹の歌日記と言えるほど、少将内侍の登場場面が多い。弁内侍の詞書から、父・信実に先立って死去したことがわかる。