<藤原氏>北家 道綱流

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藤原顕綱 藤原家通

 歌人として知られ、承暦2年(1078年)の内裏歌合などに出詠。家集として『讃岐入道集』(『顕綱朝臣集』)があり、『後拾遺和歌集』以下の勅撰和歌集に25首が入選している。また古典にも造詣が深く『万葉集』の書写などを通じてその伝承に貢献した。
 母が禎子内親王の乳母であった関係から後三条天皇に近く、次男の有佐は実は後三条天皇の落胤であったと伝えられている。

 承暦2年(1078年)の内裏歌合の右方に越前守として出席して勝利、翌承暦3年(1077年)に昇殿が許され、程なく侍従となる。左近衛少将,左京権大夫,加賀守などを歴任後、正四位下・宮内卿に至る。また、禎子内親王及びその孫(養女)・篤子内親王家の別当を務めた(禎子内親王の乳母弁乳母は家通の父方の祖母)。
 没後、その宅地は白河法皇によって買い取られ、後に保元の乱の激戦地となる三条東殿が造営されることとなる。

藤原有佐 藤原長子

 後三条天皇と掌侍であった平親子(侍従内侍)の間に産まれるが、母親の身分が低かったため藤原顕綱の子として育てられる。後三条天皇が扇に有佐の名を書いて、侍従内侍に与えたという。顕綱の母の藤原明子(弁乳母)が後三条天皇の母である禎子内親王の乳母だった関係で、明子の息子である顕綱の養子となったともされる。
 兵衛佐,中務少輔,甲斐守を経て、白河院政期初頭の寛治元年(1087年)従四位下に叙せられる。その後、嘉保元年(1095年)土佐守、康和4年(1102年)ごろ紀伊守、天仁元年(1108年)近江守と白河院政期前半に受領を歴任する一方、嘉承2年(1107年)令子内親王が皇后に立てられると、有佐は皇后宮亮を兼ねた。位階は天仁元年(1108年)正四位下に至る。
 天永元年(1110年)任期途中で近江守を辞任し、同年9月20日卒去。
 左大臣・源師房が中務少輔の官職にあった有佐に路上で出会った際、有佐は車から降りて師房に敬意を表した。その時の様子が後三条院にそっくり似ており、師房は有佐に対して気の毒に感じたという。

 『讃岐典侍日記』の作者。女房名は讃岐典侍。姉・兼子が堀河天皇の乳母であったことから、康和2年(1100年)堀河天皇に出仕、翌年暮に典侍に任じられ、その身近で「もろともに八年の春秋」を過ごした。嘉承2年(1107年)7月、堀河天皇の病重く重態に陥ると、その側を離れず最期の時まで看病し続けた。
 一度は、宮仕えから身を退いたが、翌天仁元年(1108年)から白河院の強い意向を受け、幼帝・鳥羽天皇の典侍として再出仕した。その後、時期は不明だが、典侍の職を辞していたと思われる。
 元永元年(1118年)秋頃から、しばしば先帝・堀河院の霊が憑き、鳥羽天皇を守護すると称して内裏に常駐するようになった。そして中宮璋子(待賢門院)の懐妊を予言、皇子誕生を朝夕に内侍所で祈り、翌元永2年(1119年)実現させた(後の崇徳天皇)。鳥羽天皇をはじめとして内裏での信を得ていたが、やがて堀河院の霊の言葉として、兄・道経を近江守に任ぜよと命じたり、種々雑多のことを言い出し、白河院により参内を停止された。これら以外の伝記的情報は乏しい。
 長子が『讃岐典侍日記』に書き留めた幼帝・鳥羽天皇の口ずさみ「ふれふれこゆき』は、200年あまり後に、吉田兼好によって「昔より言ひけることにや」と引用されている。文字に残されたわらべうたの記録として最古のものという。