清和源氏

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下間宗重 下間頼龍
 承久元年(1219年)、同族の源頼茂(頼政の孫)が鎌倉幕府打倒を企てたとして討たれると、宗重も連座して処刑されることとなったが、たまたま通りかかった親鸞が処刑の非を説いたため、親鸞が宗重を出家させることを条件に助命された。宗重は親鸞に深く感謝してその弟子となって東国での伝道に随従する。親鸞が常陸国下妻に庵を構えた時にこれを記念して宗重は「下妻」を名乗り、これが変化して「下間」になったのだという。しかし、親鸞による宗重の助命は資料的に裏付けがなく、史実かどうかは疑問である。『尊卑分脈』には宗重までは記されているが、その子孫や「下間」については全く記されていない。

 戦国時代の本願寺の僧侶。下間真頼の子・下間頼広(後の播磨新宮藩主・池田重利)の父。
 本願寺の僧侶の中では、軍事よりも政治や文化方面に通じており、堺の商人たちとも茶会などから交流があったといわれている。石山合戦においては織田信長側の細川昭元を攻めて戦功をあげている。
 本願寺が信長に降伏したとき、同族の下間頼廉,下間仲孝と共に和睦条約に連署したといわれている。だが、翌年に教如が石山への再籠城を企てたとき、教如の側近だった頼龍は顕如から叱責を受けている。後に池田恒興の娘婿となる。

下間頼純 下間頼秀
 本願寺の坊官である。織田信長との石山戦争で活躍後、天正4年(1576年)に法主・顕如の命を受けて加賀国に赴き、七里頼周と加賀門徒との仲裁にあたり、以後は七里に代わって加賀方面の指揮官として織田軍と戦った。加賀が織田軍の手に落ちると命からがら石山本願寺に帰還する。その後は顕如から3男・准如の補佐を命じられている。

 本願寺第10世法主・証如の後見人で外祖父・蓮淳に接近、享禄元年(1528年)に加賀に赴き、超勝寺実顕(蓮淳の婿)と共に所領の横領で加賀の賀州三ヶ寺(松岡寺・光教寺・本泉寺)と対立、享禄4年(1531年)の大小一揆で大一揆に属して賀州三ヶ寺ら小一揆を壊滅させた。畿内で本願寺と細川晴元が衝突、天文の錯乱で山科本願寺が焼け落ち、証如が石山本願寺に移ると畿内へ戻り、一揆を率いて細川軍と戦うが、天文4年(1535年)に証如が晴元と和平を結ぶと主戦派として失脚、本願寺を退去した。天文8年(1539年)、近江で証如の刺客に暗殺された。
 頼秀の追放及び暗殺は、天文の錯乱の責任を取らせるための処分とされている。その後、弟の頼盛も暗殺、代わって和平派として活動した叔父の下間頼慶の系統が本願寺坊官として台頭した。

下間頼盛 下間頼照
 兄と共に本願寺第10世法主・証如及び後見人の蓮淳に接近、享禄4年(1528年)の加賀の大小一揆で大一揆に属して超勝寺実顕(蓮淳の婿)を助け、小一揆を壊滅させた。天文の錯乱で畿内へ戻り、河内・摂津で一揆を率いて転戦するが、天文4年(1535年)の証如と細川晴元との和睦で主戦派として失脚、兄と共に本願寺を退去した。翌5年(1536年)、摂津中嶋城で一揆の部将として参戦したが、木沢長政に打ち破られて逐電、堺で証如の刺客に暗殺された。

 官位が筑後守であったことから、通称は筑後法橋という。下間氏は親鸞の時代から本願寺に仕えた一族で、頼照はやや傍流にあたるが、顕如によって一向一揆の総大将として越前に派遣され、『朝倉始末記』の記述やその発給文書から実質的な越前の守護、あるいは守護代であったと認識されている。
名は頼照のほかに頼昭,述頼。頼照の前半生については詳らかではく、記録が残るのは天正元年(1573年)頃からである。天正元年(1573年)朝倉義景が織田信長によって滅ぼされ越前が織田勢力下におかれた。天正2年(1574年)2月、越前における織田家勢力の間で内紛が起こると、それに乗じて一向一揆勢は次々に支配を拡大した。頼照は顕如によって一向一揆の総大将として越前に派遣され、織田信長から越前を任されていた桂田長俊,土橋信鏡らを討って越前を実質的な本願寺領とした。
 しかし一揆の主力である地元の勢力は、大坂から派遣された頼照,七里頼周らによって家臣のように扱われることに不満をもち、反乱を企てた。天正2年閏11月、頼照はじめ本願寺側の勢力はこれを弾圧した。
 天正3年夏、織田の勢力が越前に進攻。頼照は観音丸城に立てこもり、木芽峠で信長を迎え撃つ準備をする。8月15日信長は1万5千の軍をもって越前総攻撃にとりかかった。地元の一揆勢の十分な協力を得られなかったこともあり、織田方の猛攻に拠点の城は落城、頼照は海路をのがれようとしたが高田派の門徒に発見され、首を打たれた。

下間仲孝 下間頼廉

 本願寺の坊官。能をよくし、能の伝書や演能記録を残している。能の芸名は素周である。母は定専坊了宗の女。
 織田信長との石山戦争で10年にわたって各地に転戦して門徒を指導した。しかし1580年、本願寺が信長と勅命講和を結んだとき、講和条約署名3名の1人となる(他の2人は下間頼廉,下間頼龍)。その後は本願寺顕如に従って講和が結ばれた後も織田軍に抵抗する各地の一向門徒の収拾に奔走した。顕如の死後は准如に従った。だが、関ヶ原の戦い後は嫡男・仲世が石田三成の友人だった事から准如(西本願寺)の西軍加担疑惑が持ち上がり、仲世を廃嫡して仲孝自身も謹慎している。
 仲孝は能をよくし、能楽史上では下間少進として知られている(ここでは少進と記す)
 少進は若年から金春大夫笈蓮の元で修行し、金春流の秘伝はすべて伝承、当時のアマチュア能「手猿楽」の第一人者として著名であった。金春流では途絶えていた「関寺小町」を復曲上演するなど、プロをもしのぐ活躍をした。
 天正16年(1588年)から『能之留帳』と題する演能記録を残しており、この記録によって共演者や観客が詳細にわかる。それによると、少進は豊臣秀次の能楽指南役をつとめ、豊臣秀吉や徳川家康の前でも能を披露している。元和元年(1615年)には禁裏でも能を演じ、「当時の上手」であるという記録が、『義演准后日記』にみえる。
 家康の4男・松平忠吉に能の秘伝書『童舞抄』を伝授するなど、戦国乱世にあって能をもって下間家と本願寺の存続をはかったという評価もなされている。少進の残した『能之留帳』などの記録や『笈蓮江問日記』『少進聞書』といった聞き書き、『童舞抄』『舞台之図』などの伝書は、能楽史のうえからも貴重なものとされている。

 石山本願寺の坊官。通称は右衛門尉。剃髪し刑部卿と号す。法橋,法眼,法印に任ぜられる。
 顕如に仕え、織田信長との石山戦争では鈴木重秀(雑賀孫一)と共に本願寺軍の武将として織田軍を苦しめた。このため、「大坂之左右之大将」と呼ばれたという。しかし単なる軍事指揮官だけではなく、天正4年(1576年)に七里頼周が加賀にて無法を行なったときには、それを改めるよう文書を発するなど、政治面においても重きをなしていた。
 天正8年(1580年)、本願寺軍が織田軍の前に敗色濃厚となると、正親町天皇の勅命講和により本願寺を退去することとなったが、このとき頼廉も下間頼龍や下間仲孝らと共に講和に署名している。講和後は顕如に従って本願寺を退去し、各地で織田軍に対して抵抗を続ける一向宗徒の説得に当たった。
 信長死後、顕如と並ぶ本願寺の中心人物であった頼廉に対して豊臣秀吉や徳川家康らから一向宗徒を軍として貸してほしいという依頼がたびたびあったが、頼廉はこれに対して終始中立を保った。天正17年(1589年)、秀吉から七条猪熊に宅地を与えられ、本願寺町奉行に任じられた。
 寛永3年(1626年)、90歳という長寿をもって死去した。