清和源氏

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植村持益 植村氏明
 植村家の祖。美濃の守護土岐氏の一族。遠江上村に移り、明応年間(1492~1501年)に植村と改める。松平長親に仕え、三河碧海郡東本郷に城を築いた。

 松平家3代(清康・広忠・家康)に仕えた家臣で、不毛の豪傑であり槍・刀の名手で、剣術は鞍馬流の奥義を極めていた。
 天文4年(1535年)、主君・松平清康が森山崩れで阿部弥七郎正豊に斬られたときも正豊をその場で斬っている。また、天文18年(1549年)に次代の主君・松平広忠が刺客の岩松八弥に斬られたときも逃げてきた八弥と組み合った末、堀に落ち、松平信孝が鑓で突こうとしたが、結局新六郎が首を斬り、感状を与えられた(ただし広忠の死因には労咳説もある)。
 天文21年(1552年)、尾張国沓掛で織田軍と戦闘した際、戦死した。

植村家存 植村泰忠

 天文18年(1549年)、9歳の時から家康に仕える。その後、天文21年(1552年)に父が死去したため家督を継承。
 永禄5年(1562年)、清洲同盟の時は岐阜城に赴いた主君・徳川家康の護衛を務める。この時、織田信長について行き、家康一行が書院に入ろうとしたが、家存が家康の刀を持ったまま入室しようとしたため、警固の者に何者かと咎められた。これに対して家存の方は、「我は植村出羽守なり。主君の刀を持って参ったのを、そのように大袈裟に咎めてくれるな」と荒々しく言い放った。この時、それを耳にした織田信長に前漢の樊噲に似ていると賞賛された。会見後、織田信長は護衛役の家存に二振りの行光の太刀を与えた。
 その後、酒井忠次,石川家成,石川数正らと共に家康の家老となる。元亀3年(1572年)には織田信長と上杉謙信の同盟の仲介を行い、謙信から長光の刀と山伏出立の具足を贈られた。天正5年(1577年)に37歳で死去。

 幼くして父を亡くし、三河国鳳来寺の大叔父・二位法印教円に育てられ、鳳来寺薬師別当となり、安養院と号する。三方ヶ原の戦いに僧兵を率いて徳川家康に加勢した。戦後に還俗し、遠江国榛原郡内に領地を賜る。小田原の役における武蔵国岩槻城攻略で親族の本多忠政とともに参戦し武功を挙げ、家康の関東入りに従い上総国夷隅郡勝浦3000石を賜り、のちに2000石を加増され勝浦を居所とし、それまでの勝浦城を廃城にし勝浦の街の基礎を築いた。また、領民に市を開かせて、これが日本三大朝市に数えられる勝浦の朝市のはじまりである。
植村恒朝

 長兄が早世したために世子となり、享保13年(1728年)12月に従五位下・長門守に叙任する。享保14年(1729年)の父の死去により、家督を継いで藩主となり、土佐守に転任する。
 寛保2年(1742年)2月から延享4年(1747年)4月まで大坂定番を務めた。しかし寛延4年(1751年)8月、分家の植村千吉(恒朝の叔父・植村忠元の孫)が義弟の朝比奈義豊(万之助)に殺害され、殺害後に義豊も自害するという事件が起こった。この事件を恒朝は家老の意見をいれ、病死と虚偽の報告を幕府に行ったが、10月になって朝比奈家より出された届けと異ったために虚偽が発覚、本来なら死刑か流罪にされるところを、前将軍・徳川吉宗の死去による恩赦により、10月12日に改易のうえで本家の大和高取藩主・植村家道預かりの身となった。宝暦3年(1753年)8月、恩赦により罪を許された。
 宝暦5年(1755年)7月22日に死去。享年55。
 改易のとき、養子の植村寿朝(酒井忠寄の4男)も連座により処罰されたが、やがて許されて、新規に2,000俵取りの小普請として家名は存続した(植村五郎八家)。