清和源氏

G336:斯波家氏  源 経基 ― 源 頼信 ― 源 義国 ― 足利義氏 ― 斯波家氏 ― 斯波義種 G338:斯波義種

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斯波義種 斯波満種

 室町幕府小侍所頭人,侍所頭人、加賀・越前・若狭・信濃・山城守護。観応3年/正平7年(1352年)、足利一門の有力者である斯波高経の5男として生まれる。高経には多数の子息がいたが、とりわけ4男・義将と同母の5男・義種は父の偏愛を受け、康安2年/正平17年(1362年)に従五位下・民部少輔となり、翌年には小侍所、さらに翌年には侍所頭人兼山城守護になるなど優遇された。
 しかし貞治5年/正平21年(1366年)8月の貞治の変によって父が失脚すると父や兄に従って都を去る。やがて父が没すると、兄と共に赦免され幕府に帰参した。その後官位は伊予守,修理大夫と進み、信濃や加賀の守護職に任じられるなど有力な守護大名となった。
 応永2年(1395年)、3代将軍・足利義満の出家に従い兄と共に薙髪する。応永15年(1408年)2月2日に卒去。享年57。
 義種は越前においては越前の大野郡郡司を本家の武衛家(越前守護)より任されたため大野斯波家の初代となった。将軍の推薦により朝廷より代々修理大夫、または民部少輔に任命されたため修理大夫家、民部少輔家ともいう。大野斯波家はその後も武衛家の有力な分家として斯波一族内で重要な立場にあり、実際、義種の曾孫である斯波義敏は嗣子の絶えた本家の武衛家を継いでいる。しかしながら斯波一門内では重要な立場にあったものの、幕府内においては加賀守護職を義種の子・満種の代で早くも喪失し、同じ管領家の一族である細川京兆家における阿波細川家、畠山金吾家における能登畠山家などのように斯波武衛家における加賀斯波家としては長続きすることができなかった。
 その後その存在は細川典厩家や一色式部少輔家に類似し、本家が守護をつとめる国の分郡守護や郡代を務める家柄に属した。

 永和2年/天授2年(1376年)、加賀守護・斯波義種の嫡男として生まれる。父の義種は、斯波一門の有力な分家(大野家・斯波民部少輔家)として加賀や若狭などの守護職を歴任し、伯父の斯波義将は室町幕府の管領として辣腕を振るっており、満種自身も3代将軍・足利義満の偏諱を賜るなど、権門武家の子息として成長する。
 やがて民部少輔に任官し、明徳3年(1392年)8月の相国寺供養では6騎を従え、従兄にあたる斯波義重(武衛家)と共に将軍・義満の随身を務めた。応永12年(1405年)頃にはさらに左衛門佐に官を進め、応永15年(1408年)に父が没すると加賀守護職を継いで名実ともに大野家当主となった。しかし応永21年(1414年)に4代将軍・足利義持の忌避に触れて加賀守護職を剥奪されると、満種は高野山へ遁世してしまい、加賀守護家としての大野家はここに没落した。なお、加賀守護は義持の近臣として台頭してきた富樫満成に与えられた。 応永34年7月7日(1427年)没。享年52。
 満種の失脚により斯波氏は加賀守護家の世襲化に失敗し、同氏は有力な分家守護を失い次第にその勢力を弱めていくことになる。一方で満種の血統は斯波武衛家分家として斯波武衛家領国の越前大野郡に残り、やがて孫にあたる斯波義敏が本家である斯波武衛家を継承することになるのである。

斯波満理 斯波持種

 大野満理とも称す。元中元年/至徳元年(1384年)、加賀守護・斯波義種の子として生まれる。伯父の義将は幕府管領として室町幕府第3代将軍・足利義満を補佐する立場にあり、父・義種もまた若年より侍所頭人や加賀,若狭,山城の各守護職を歴任するなど、斯波一門は幕府内でも大きな位置を占める家柄であった。このため満理も名門武家の御曹司として成長し、兄・満種同様、将軍・義満より偏諱の授与を受けた。
 しかし応永21年(1414年)に大野斯波家を継承していた兄・満種が4代将軍・足利義持の忌避に触れて失脚すると、これまで同家が相伝してきた加賀守護職を喪失し、守護大名としての大野斯波家は没落してしまった。この状況に満理は僅か2歳の甥・持種(満種の子)の後見(もしくは家督を代行)をしたと見られ、父と同じく修理大夫の官職に任じられている。応永31年(1424年)11月6日没。享年41。
 満理の死後、大野斯波家は持種によって再興が進められ、やがて持種は斯波一門の長老として武衛家(斯波本家)の家政に重きを成していくことになるのである。

 加賀守護斯波は、斯波氏宗家である武衛家の有力な分家として、さらに加賀の守護職を相伝する、武衛家に次ぐ有力な斯波氏一門として勢力を持っていたが、持種の生まれた翌年に父・満種が4代将軍・足利義持の勘気を蒙り加賀守護職を奪われて高野山へ逐電してしまい、加賀守護としての斯波氏はここで終焉を迎えてしまうことになった。
 残された持種であったが、京都に於いて将軍・足利義持から偏諱を賜り、斯波大野家代々の民部少輔に任官していることから名門・管領斯波武衛家に繋がる者として、幕府からも粗略な扱いは受けなかったようである。やがて成長した持種は武衛家一門の有力者として武衛家家中で大きな発言力を持つようになる。
 永享の乱では、斯波氏を代表して関東に出陣し、駿河守護・今川範忠らと共に鎌倉公方足利持氏と戦った。しかし、その直後の嘉吉元年(1428年)に元遠江守護の流れを汲む今川貞秋が遠江奪還を目指して挙兵をしたため、これを攻め滅ぼした。
 この頃の斯波氏は斯波義淳・義豊父子が相次いで没し、さらに義郷,義健と短命の当主が続き、自然に斯波氏の長老として持種の存在感が大きくなり、武衛家家中の指揮を執る立場となっていった。この持種と対立したのが斯波氏代々の執事で越前守護代ある甲斐氏の甲斐将久(常治)であった。常治は持種と共に武衛家当主の後見人となり、幕府の命令で大和永享の乱と永享の乱で大和・関東に出陣していたが、筆頭家臣として武衛家一族や他の家臣からみれば傍若無人な振る舞いが目立つ存在であり、両者が対立するのは必然であったといえる。常治が越前で斯波氏領国支配を推し進めていた焦りもあり、甲斐氏に反感を持つ越前国人は持種につき、後の合戦の対立構図ができあがっていく。
 文安3年(1446年)9月、持種は加賀へ出兵。守護職を巡って対立している富樫氏の当事者の1人富樫泰高に肩入れした。泰高の甥成春を追放したが、斯波方にも多くの死傷者を出している(加賀両流文安騒動)。この時から持種と常治の対立が発生。加賀復帰を狙った持種に将久が反対したことが原因と見られている。
 その後、斯波義健が僅か18歳で夭逝すると、武衛家当主に持種の長男である義敏が据えられた。このことで持種・義敏父子と常治の対立は激化し、長禄2年(1458年)、ついに長禄合戦をもって両者は激突する。この合戦で持種・義敏父子は敗北し失脚。孫で義敏の子息・松王丸が当主となるも、間もなく松王丸も家督を廃され、代わって渋川義鏡の子・義廉が武衛家当主となることとなった。ところが、その後、伊勢貞親の働きかけで義敏が赦免されて、寛正6年(1465年)12月には義敏が将軍・足利義政と対面して正式に赦免された際には持種も同席している。翌文正元年(1466年)には義敏の斯波氏家督と守護復帰が決定されて8月25日には持種も義敏に従って義政に拝謁しているが、直後に発生した文正の政変によって義敏は再び追放されて義廉が復帰する。一連の騒動を武衛騒動という。
 やがてこの斯波氏の混乱に将軍家・畠山氏の家督争いが絡み応仁の乱が起こると、義敏・松王丸と共に東軍に属し越前の奪還を目指して戦うことになる。しかしながら一度凋落を始めた斯波氏の権威は容易に取り戻せるものではなく、甲斐氏の次に頭角を現した朝倉孝景によって越前の攻略が推し進められる中、持種は応仁の乱で混迷極める文明7年(1475年)、63歳の生涯を閉じた。その後の斯波民部少輔家(大野家)は義敏の弟である斯波義孝が継いだ。

斯波義孝 奥田秀種

 享徳2年(1454年)、大野斯波氏の当主・斯波持種の子として生まれる。大野家は斯波一門中最も本家に近い家柄であり、代々足利将軍の偏諱を賜い、事実上の大野郡分郡守護を世襲するなど高い家格を有した。
 この頃の斯波氏は、本家である武衛家当主が相次いで早世しており、義孝の兄・義敏が武衛家当主の座を継承していた。しかし義敏は武衛家重臣・甲斐常治と対立を深め長禄合戦を引き起こして一時失脚してしまう。義敏の嫡男である松王丸は一度は継いだ武衛家の家督を奪われて相国寺に送られ、義敏の実弟である竹王丸も延暦寺に送られた。
 文正元年(1466年)に義敏が復権すると、竹王丸も8月3日に延暦寺から京都に戻され、8月17日には幕府から越前国大野郡を与えられ、大野斯波氏を継ぐことが許された。ところが、今度は渋川氏から武衛家に養子に入っていた義廉との間に武衛騒動を引き起こし、それが応仁の乱の遠因になるなど混迷の中にあった。更にこの武衛家の混乱に乗じた武衛家重臣の朝倉敏景(孝景)によって、斯波氏の本拠地ともいえる越前を押領されてしまう状況となった。そのような状況の中で長じた義孝は兄・義敏の娘を娶って、甥である松王丸改め義寛(義良)と義理の兄弟になると、義寛と共に越前を簒奪した朝倉氏との戦いに身を投じることとなる。後に義孝は義寛の「上屋形」に対し、「下屋形」と称されている。
 没年は不詳。義孝死後の大野家は、子の義縁,義信(義延とも)兄弟がそれぞれ継承していったとされる。

 先祖は斯波義将の弟・義種で、民部少輔満種 - 修理大夫持種ー左兵衛督義敏ー三郎政敏(秀種の父)と連なる血筋である(【G337】参照)。三郎政敏が途中で改名したとの説もある。 また、満種の3男で源三郎氏種という者が尾張国中島郡奥田庄の領主となり、奥田氏を称したとする家系図もある。この奥田家が3代目・直種の代で断絶のところ、秀種が養子となり奥田家を相続した。よって最初尾張国奥田庄に住んでいたが、のち美濃国茜部に移住し、土岐氏の家臣となった。近江国へ度々合戦へ赴き手柄を立てた。近江の佐々木一門との合戦で、佐々木氏の「四つ目結び」の旗指物を奪い取り、四つ目のうちの一つをとり、「釘貫き」の家紋とした。定紋は「亀甲に花菱」。「釘貫き」の発祥自体は鎌倉時代の関東の武士のようだが、村松藩の堀家の「釘貫き」は秀種に由来する。
 弘治3年(1557年)9月5日没、享年54。

奥田直純

 美濃国茜部に500貫文の地を領し、斎藤義龍に仕えた。義龍が父・道三と戦った際、怪力無双を謳われた道家孫次郎と戦いその首を討ち取った。これにより世人は直純を悪七郎五郎と呼んだという。義龍の死後は織田信長に仕えた。元亀2年(1571年)に49歳で死去した。
 息子の三右衛門政次は従兄弟の堀秀政と共に信長に仕え、堀姓を賜り「堀直政」と改め、家名を盛り立てた。