清和源氏

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関口経氏 関口親永
 三河国宝飯郡長沢村関口を発祥とし、初代・経国より6代・教兼までは三河国宝飯郡関口庄を分国治領地とした。地名の関口は長沢村西端を関屋といい、そこを通る古道の入り口に関所を置いたことに因むという。現在も登屋ケ根城などの居城祉が残り、山麓の長寛寺(現・立信寺)には関口氏代々の五輪塔がある。

 今川一門の瀬名氏貞の次男。一族の関口氏録の養子となって関口家の家督を相続した。駿河今川家の重臣かつ室町幕府の奉公衆でもある。
 異説によれば、奉公衆である関口政興の弟である氏兼が駿河に下って今川氏に仕えて堀越貞延の娘を娶ったが大永5年(1525年)に死去し、後を継いだ嫡子の刑部(幼名:慶王)も程なく没したために瀬名氏貞の子である助五郎(親永・氏純)が関口氏の婿養子になって相続したという。また、政興の子である氏縁も享禄4年(1531年)頃から今川氏に仕え、息子の越後守・氏経も今川氏に仕えたという。
 永禄3年(1560年)、義元が織田信長によって桶狭間の戦いで討たれた後も衰退する今川氏を支えた。しかし娘婿の家康が今川氏から独立したため、義元の嫡男・氏真からその去就を疑われた結果、永禄5年(1562年)、駿府屋形町の屋敷にて切腹を命じられて果てた。
 氏純は後北条氏からの人質であった北条氏規(義元の甥)を婿養子として関口氏を継がせる予定であったが、氏純が処罰されたことで後北条氏から返還を求められた結果、小田原城に帰還したという説もある。

関口瀬名 関口氏心

 築山御前、または駿河御前とも呼ばれる。築山殿,築山御前という呼称は、長く岡崎城郊外の築山に幽閉されていたことによる。弘治3年(1557年)、今川義元の養女となり、今川家の人質として駿府にいた三河岡崎城主の松平元信(元康、後の徳川家康)と結婚する。永禄2年(1559年)に松平信康、同3年(1560年)に亀姫を産む。
 永禄3年(1560年)5月19日の桶狭間の戦いにて伯父の今川義元が討たれ、元康は岡崎に帰還することとなった。永禄5年(1562年)3月、父の親永は娘婿である家康(元康から改名)が信長と同盟を結んだことで今川氏真の怒りを買い、正室と共に自害した。築山殿は、今川義元の妹の夫である上ノ郷城城主・鵜殿長照の2人の遺児との人質交換によって、駿府の今川館から子供たちと共に家康の根拠地である岡崎に移った。しかし、岡崎城に入ることは許されず、岡崎城の外れにある菅生川のほとりの惣持尼寺で、幽閉同然の生活を強いられたという。永禄10年(1567年)、信康と織田信長の長女・徳姫が結婚する。
 元亀元年(1570年)4月下旬、ようやく築山殿は岡崎城に移った。同年、家康は遠江浜松に移ったが、世継ぎの信康とともに岡崎にとどまった。徳姫は天正4年(1576年)には登久姫を、天正5年(1577年)には熊姫を産んだ。しかし、徳姫がいつまでたっても信康の息子を産まないため、心配した築山殿は、元武田家の家臣で後に徳川家の家臣となっていた浅原昌時の娘および日向時昌の娘など部屋子をしていた女性を信康の側室に迎えさせた。
 天正7年(1579年)、徳姫は、築山殿が徳姫に関する讒言を信康にしたこと、築山殿と唐人医師・減敬との密通があったこと、武田家との内通があったことなど、12ヶ条からなる訴状を信長に送り、これにより信長が家康に信康の処刑を命じたとされる。家康の命令により、築山殿は8月29日に小藪村で野中重政らによって殺害され、信康は9月15日に二俣城で切腹した。だが、この通説には疑問点も多く、近年では築山殿の殺害と信康の切腹は、家康・信康父子の対立が原因とする説も出されている。
 築山殿は傲慢で嫉妬深い女性だったと伝わる。史料の多くは後世の江戸時代に編纂されたもので、多少の誇張もあろうが、江戸時代に権現様となった家康の正室だった人物がここまで貶められているのは異常とさえ言える。ただし政治的に考えれば、政略結婚の価値がなくなった彼女を始末した徳川家が、それを正当化するためにでっち上げたものであるという可能性も否定できない。

 三河国長沢村出身。徳川家康の正室・築山殿が関口氏(瀬名氏)出身であったことから、桶狭間の戦い以降の今川氏の没落にともない今川氏真との関係が悪化し、松平氏(徳川氏)に仕えるようになった。父・関口氏幸は家康の嫡子松平信康の家臣である。
 氏心は、幼少の頃より武芸,組討に優れていた。廻国修行の許可を得、林崎甚助より神夢想林崎流の抜刀術、三浦義辰より三浦流柔術を学んだ。
 また、屋根から猫が落ちるものの1回転して着地し何事もなく歩いていくのを見て開眼し、自ら屋根から落ちてみるなどの修行の末高度な受け身を極めたという。これらの事を工夫しまとめ、柔術の流派である関口新心流を開いた。
 はじめ松平飛騨守、次に本多甲斐守(本多政勝大和国郡山藩)、後1639年(寛永16年)に紀州徳川家の柔術指南役として徳川頼宣に仕えた。関口新心流は紀州藩の御流儀となり、江戸時代に最も広まった柔術流派のひとつとなった。
 子は男子は関口氏業(八郎左衛門・第二代宗家),関口氏英(萬右衛門・第三代宗家),関口氏暁(弥太郎・第四代宗家)。女子は義,家で5人の子供の名前はそれぞれ、「八・萬・太郎・義・家」が入っており、これは、氏心が自身の先祖が源八幡太郎義家であることからである。

関口氏暁

 1640年(寛永17年)、播磨国に柔術・関口新心流の開祖、関口氏心の3男として生まれる。寛永9年(1632年)9月22日に行われた「寛永御前試合」に出場したとする文献があるが、まだ生まれておらず矛盾する。 紀州徳川家に仕えた。数寄屋奉行,郡奉行,鉄砲改役等を歴任した。関口新心流三代目の氏英の嫡男・氏一が成人するまで、四代目を務めた。
 1729年12月2日(享保14年10月12日)、死去した。享年90。父同様に江戸に贋者が現れたといい、「関口新心流」によれば、東京都足立区伊興町狭間の法受寺にある墓は贋者のものであるという。
 講談の主人公として登場し、二本松藩士として描かれるが、事実とは異なる。講談や剣豪小説、またそれらを原作とした映画の中では、妻とともに仇討ちの旅に出る設定のキャラクターとして描かれている。