清和源氏

G427:武田信光  源 経基 ― 源 頼信 ― 源 義光 ― 源 義清 ― 武田信義 ― 武田信光 ― 大井信明 G436:大井信明

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大井信明 大井信達

 南北朝時代には安芸守護武田信武が甲斐守護となり甲斐へ土着するが、信武の3男・信明は大井荘へ入部して大井氏を称した。
 信明の2人の兄が甲斐・安芸両武田氏の祖とされているが、信明が惣領の重要な業務である父祖(ここでは父・信武)の供養を行っていることや信武晩年の官途である陸奥守を名乗っていることから、信明も武田氏家督もしくは有資格者であったと考えられている。

 甲斐では守護武田氏において武田信縄と武田信昌,油川信恵の内訌と連動して国人同士の対立が発生しており、延徳2年(1490年)には大井氏は穴山氏と対立し穴山・大井合戦が起こっている。穴山氏などの有力国人は駿河国の今川氏と結んで勢力を維持したが、信達も今川氏親に属し、永正12年(1515年)には武田信虎(信直)に富田城を包囲されるが、今川氏の救援を得て大敗させる。
 翌永正13年には今川氏の甲斐侵攻を行っているが、翌永正14年(1517年)には吉田(富士吉田市)をはじめ各地で今川勢は撤退しており、武田氏は今川氏と和睦する。大井氏もこれに際して武田氏と和睦したと考えられ、娘(瑞雲院殿)を信虎の正室(人質)として差し出して降伏して臣従した。永正17年には、娘婿であった東郡を領する今井氏の今井信元や栗原氏と結び再び信虎に背いているが、連合軍は各地で撃破され、大井氏は今諏訪の合戦で敗れている。同年に甲府の一蓮寺で催された和歌会の記録では「大井入道宗芸」と記されており、信虎から隠居と出家を命じられたと考えられている。
 信達は文化人として知られ、永正3年には飛鳥井雅康から「八代集秀逸」を与えられている。隠居後はしばしば和歌会を主催し、冷泉為和から「歌道執心の法師」と評されている。

大井信業 大井信常

 父の信達は駿河国の今川氏と結び甲斐守護・武田信虎と敵対していたが、永正14年(1517年)に信虎と和睦すると、娘の大井夫人が信虎へ嫁いだ。『王代記』によれば、永正17年(1520年)には大井氏は逸見氏や栗原氏らの甲斐国人とともに信虎に反抗し、6月10日には敗退し再び信虎と和睦した。信達はその後、出家・隠居し、信業は家督を譲られて当主になったと考えられている。
 「守矢家文書」によれば、年次は不詳であるが諏訪大社上社に「松井鹿毛」と呼ばれる名馬と具足を奉納しており、この時に「左衛門督」を名乗っている。
『一蓮寺過去帳』によれば、享禄4年(1531年)2月2日に病死。
 信業の子息・大井信為は幼少のため、一時的に弟の大井信常が跡を継いだ。

 享禄4年(1531年)2月2日に兄・信業が病死し、信業の子・信為が家督を相続する。「諸州古文書」によれば、天文14年(1544年)6月14日、信濃府中における武田氏と信濃守護・小笠原長時との合戦において信常の被官である中島善五郎が首級を挙げ、武田晴信から感状を得ている。
 三条西実枝『甲信紀行の歌』によれば、天文16年(1547年)に三条西実枝は甲斐へ下向して歌会を開き、同年8月20日に実枝と信常,武田信繁,信常の弟である武藤信堯らが精進(山梨県南巨摩郡富士河口湖町精進)において歌会,船遊びを行っている。翌8月21日にも出立する信枝と歌を交わしている。また、『心珠詠藻』によれば、年不詳の秋には甲斐へ下向した四辻季遠が信常の宿所を訪問し、和歌を詠んでいる。
 『高白斎記』によれば、天文18年(1549年)月27日には甥にあたる信為が死去し、名代として家督を相続している。天文19年(1550年)8月25日の戸石城攻めでは足軽大将の横田高松,原虎胤らとともに敵情視察に派遣された。
 天文20年7月14日に死去し、子息により高野山成慶院で供養が行われているが、命日は供養依頼日である可能性も指摘される。

大井の方 武藤信堯

 甲斐国守護である武田信虎の正室。武田晴信らの母。大井夫人とも言われ、実名は不詳。剃髪後は武田氏の居館である躑躅ヶ崎館北の御隠居曲輪に移ったことから御北様と呼ばれる。
 甲斐西郡の国衆で武田氏一門でもある大井信達の娘として生まれる。大井氏は駿河国の今川氏と結び信直(信虎)との抗争を続けていたが、永正14年(1517年)に信達は信虎と和睦した。このとき娘は信虎の正室として嫁いだため、大井夫人の輿入れは人質的性格の強い政略結婚であったと考えられている。
 信虎との間には永正16年(1519年)に生まれた長女(定恵院)をはじめ、嫡男・晴信、信繁、信廉(逍遙軒信綱)が産まれた。晴信の弟で信繁の兄・戌千代の実母ともされる。
 岐秀元伯を大井氏の菩提寺である長禅寺(古長禅寺)に招き、晴信に『四書五経』『孫子』『呉子』等を学ばせたという。
 天文10年(1541年)6月14日に信虎が晴信によって駿河に追放されるが、大井夫人は信虎に随行することなく甲斐に留まっている。国主となった晴信は信濃侵攻を開始するが、天文17年(1548年)2月14日には上田原の戦いにおいて大敗。敗戦後にも在陣を続けた晴信は大井夫人の説得を聞き入れて帰還したという。
 天文21年(1552年)5月7日に死去、享年56。墓所は巨摩郡大井郷の長禅寺であるが、後に同寺は信玄により甲府へ移されている。
 信廉は武将画家として知られ、父である信虎の肖像を書き残しているが、甲府長禅寺所蔵の大井夫人肖像(重要文化財)も没後一周忌に信廉によって描かれた供養像である。

 武田家親族衆の武藤氏を継承した。和歌に優れ、天文15年(1546年)あるいは翌天文16年に甲斐国を訪れた三条西実澄と交流を持ち、その帰京の際には兄の大井信常とともに見送りをしている。実澄の『甲信紀行の歌』には主君・晴信らとともに信堯の和歌5首が採録されている。
 『一統系図』によれば、信玄の下で信濃小県郡の村上氏との戦いに参加し、天文19年(1550年)の砥石崩れの際に戦死した。
 信堯の子に竹千代丸がいる。永禄年間には「武藤三郎左衛門尉」の活動が見られ、『甲斐国志』ではこれを信堯に比定しているが、活動時期から竹千代丸に比定する説がある。三郎左衛門尉は叔父の武藤常昭から家督を譲られているがまもなく死去したと考えられており、武田家の他国衆・真田幸綱の子・昌幸が「武藤喜兵衛」を称して武藤氏を継承している。